行間を読む 152 周防灘干拓遺跡と長州藩

高泊開作について検索していたら、「山口県文化財」(山口県のHP)に「周防灘干拓遺跡 高泊開作浜五梃唐樋 名田島新開作南蛮樋」という説明がありました。

 

今回の遠出の計画を立てるために地図で最初に目に入った二つの場所が、この「周防灘干拓遺跡」であったことがわかりました。

偶然に過ぎないのですが、ちょっとうれしくなりました。

 

高泊開作浜五梃唐樋

 高泊開作は、小野田の高泊湾を干拓したもので、寛文8年(1668)の汐止めによって完成した。この干拓の樋門は当初は3基であったが、安政4年(1857)に増設して5基になった。翌年、排水口周辺の岩盤を除いて排水効果を高めるようにした。岩盤を掘削してその上に組石造りの樋門を築き、石柱間の水門5列のそれぞれに、汐の干満作用により自然閉鎖する構造の招き扉と呼ばれる木製の扉5枚が付けられている。これが現在に残る浜五梃唐樋である。樋門は幅10.81m、総高6.18m。

 現在の新しい樋門が建設されるまで、300年以上にわたって機能した。

 

名田島新開作南蛮樋

 名田島は山口市の南部、椹野川河口部にあり、平地の大部分が干拓によってできている。寛永3年(1626)の慶三(けいさん)開作、元禄3年の長妻(ながつま)開作に始まり、安永3年(1774)の新開作(安永開作)と続き、昭和5年(1930)完成の昭和開作を持って、名田島開作の干拓事業は終わる。

 南蛮樋が築かれた新開作は、「長陽年代記」(山口県文書館蔵毛利家文庫)によれば、安永3年(1774)9月24日に萩藩主から郡奉行に百余町(およそ100ヘクタール)のお開作が命じられ、小郡宰判の代官の指揮のもと工事が行われ、同年12月7日に潮止めができたとされる。

 安永開作の樋門は、長方形に加工した花崗岩を積み上げた堅牢な石造の間に、ロクロによる巻き上げ方式の仕切板を設置した。樋守が1日に4度の干満の都度、板を上下させて潮止めと排水を行なっていた。潮の干満作用によって自然開閉する唐樋に対して、この樋門には、海外渡来の最新技術とされたロクロ仕掛けを用いたことから「南蛮樋」と呼ばれた。

 現在は沖合に山口県干拓が完成したため、樋門として機能することはない。

 

地図で新山口駅の南東に見つけた水色の場所が、この南蛮樋でした。そしてそのまま海岸沿いに西へと眺めていくうちに見つけたのが高泊開作浜五梃唐樋跡で、この二つが周防灘干拓地の代表的な場所であるとともに、技術的にも対比される場所でもあったようです。

 

 

*萩との関係は?*

 

この周防灘干拓は新田開発のためのようですが、なぜここから遠い萩が藩の中心地になったのだろう、瀬戸内海の方が気候も安定していそうだし干拓地にも近いしと素朴な疑問が湧いてきました。

 

地図で見ても、新田から米や塩を運ぶにも現在の山口線か美祢(みね)線のあたりの山道を通る必要がありそうです。瀬戸内海なら気候が温暖なイメージがありますが、中国山地は豪雪地帯もありますからね。

たぶん学生時代にはもっと習ったと思うのですが、萩といえば長州藩ぐらいの知識しか残っていません。

 

Wikipedia毛利氏の「江戸時代」に以下のような説明がありました。

1603年(慶長8年)10月に輝元が周防国山口の覚王寺に入った後(まだ城がなかったので)、毛利氏は幕府に対して、新しい居住地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、萩への築城を幕府に命じられた。瀬戸内海に面した便利なところは望ましくないということから萩への築城が命じられたものと思われる。萩は交通に不便な地であった。萩城の工事は埋め立てから始めなければならず難航したが、慶長13年(1608年)に完成した。以降、萩城は毛利家の居城・長州藩庁となるが、幕末には多難な国事に対応するため地の利がいい山口に藩庁が移された。

 

萩城は、岩国のように、海岸近くで川がわかれて三角州のような場所の端、海岸沿いにあります。

阿武川が二手にわかれた右側の川は放水路かと想像していたのですが、違う歴史だったようです。

 

仕事をやめてからと言わずに、また、山口を訪ねたくなってきました。

 

 

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