散歩をする 381 黄瀬川と深良用水を歩く

JR御殿場線の踏切を越えると、わずか100mほどのところで深良川は数メートルの落差で黄瀬川へと合流していました。

黄瀬川左岸は崖のように続き、そのすぐそばまで家が建っています。

黄瀬川は田畑より低い位置を流れるため、農業用水には不向きな川であった。

Wikipediaのこの一文が理解できるような風景でした。

 

ここから黄瀬川沿いに歩くために右岸側へと渡る予定でしたが、その反対側へ渡る橋へ行くだけでもかなり迂回する必要がありました。

この日は穏やかな冬晴れの天気で、真正面に冠雪した富士山が大きく見えました。このあたりでは、宝永山の窪みが富士山の真ん中に見えるのですね。

そしてここから上流数百メートルのところで、黄瀬川に支流の久保川が合流する場所があります。富士山や箱根の雪解け水や雨で増水したら、どんな流れになるのでしょう。

 

黄瀬川左岸もまた、川よりもだいぶ高い台地のような場所で田畑が広がっていました。

こちらはどこから水を得ているのでしょう。

少しずつ下っていくうちに、黄瀬川の流れが近づく場所にきました。ゆったりと流れる美しい川です。

のどかな風景の中、富士山に見守られるように下っていき、再び黄瀬川の左岸へ渡るために御宿八幡宮の角を曲がると、そこには小さな水田と真冬でも滔々と流れる水路がありました。

地図ではそこからわずか300mほどのところの水源のようで、Uの字になって黄瀬川へと流れ込んでいる水路のようです。

 

*柳端橋の歴史*

 

国道246号線を渡り、黄瀬川左岸にある裾野市民文化センター前の遊歩道へ向かいました。

黄瀬川には柳端橋という大きな橋がかかっていて、この辺りは川岸も低くゆったりとした流れでした。

 

「柳端橋」はなんと読むのか検索したら、読み方は見つからなかったのですが、「ふりかえる裾野」というサイトに、昭和35年に撮影された橋の写真とこんな話がありました。

昭和31年7月23日にこの地方を襲った台風はものすごい豪雨を伴って吹き荒れたため河川は氾濫し、大畑橋や柳端橋などいくつかの橋が流失した。写真は竣工式の模様の一コマです。

10人が横に並ぶといっぱいになるぐらいの橋が、セピア色の写真に写っています。

 

今はその幅は3倍以上はあるでしょうか。立派な大きな橋がかかり、橋のたもとに「耐候性鋼材を使った橋」である説明がありました。

 

遊歩道には黄瀬川を眺められるようにベンチがあり、水仙が咲いていました。

すでに1万5千歩ほど歩いているので、ここで黄瀬川と富士山を眺めながらおにぎりを食べて一休みです。

 

*再び深良用水沿いに*

 

元気になったところで、少し下流にあるせせらぎ児童公園を目指しました。

 

その手前に黄瀬川との水門があり、「深良用水 中郷 佐野堰」と表示されていました。期せずして、深良用水の流れに再び出会いました。ここから三方へ分水するための堰のようで、その水路の中に公園が造られているようです。

現在、深良用水隧道や堰など、深良用水に関する施設の維持管理は、1957年(昭和32年)2月発足(名称変更)の静岡県芦湖水利組合(管理者:裾野市長、副管理者:長泉町長)が中心となり行っている。上郷・中郷・下郷への水の分配については、水利組合や、上郷・中郷・下郷からそれぞれ選出された水配人によって実施されている。

Wikipedia、「深良用水」「現在の運用」より)

 

「水配人」について検索したら、「深良用水隧道に入る〜その1」(2008年8月10日)という先人の記録の中にこんな説明がありました。

その中で心に残ったのは、水配人制度(すいはいにんせいど)です。深良用水が完成して30年後ぐらいに作られた制度らしいので、すでに江戸時代から現代まで300年も継続している制度とのことです。

水配人とは、用水組合の互選によって任命された六人の役員さんです。用水をどの地区にどれくらい分配するか、という命を背負っているそうで、この人たちが今日の隧道の水先案内をしてくださるそうです。

 

駿河湾へ向かってなだらかな斜面に広がる農地を潤してきた深良用水について、少しずつ重層的に見えてきました。

 

せせらぎ児童公園は、佐野堰で割られた水路沿いに黄瀬川の河原にも行けるようになっていました。

竹藪があり、水路があり、なんとも美しい場所です。

 

その公園を抜けると、水道施設があり、そばに神社がありました。

水の神様に違いないと訪ねてみることにしました。

 

 

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