米のあれこれ 61 水争いと洪水と荒川の水田

六堰頭首工の上の重忠橋を渡り、説明板と魚道を見たあとそのまま荒川の右岸側を歩き始めました。

地図で見つけた神社を目指して歩き始めると、堤防そばの水田の脇に「開田記念」と彫られた大きな石碑がありました。1952年(昭和27)に建てられたようです。

 

その先の川のすぐそばに涼しげな鎮守の森があり、「鶯の瀬」という小さな公園になっていました。

鶯の瀬  所在地深谷市畠山

 荒川のせせらぎの聞こえるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。

 ここは、畠山重忠公が榛沢(はんざわ)六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。

  時ならぬ騎士の小笹(おざさ)の鶯は

   浅瀬たずねて鳴き渡るらん

 また、この上流には、古くから熊谷市・江南方面にかんがい用水を送ってきた六堰(ろくせき)があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。

 平成十一年九月     埼玉県

 

頑丈な橋が国内に建設された歴史もまだ「日が浅い」と言えるくらいごく最近のことですね。

 

その鎮守の森の中に井椋(いぐら)神社がありました。

 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒(まさつね)から武基、武綱、重綱、重弘、重能(しげよし)の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(かんじょう)(分祠)したものである。

 初めは井椋御所大明神、井椋御所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。

 祭神は、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)ほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡宮神社等がある。

 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。

平成十一年九月   埼玉県

 

裏手の鶯の瀬の方から神社に入ったので神社の中から鳥居の向こうを見ると、麦が青々と茂った中に参道がある美しい風景でした。

 

荒川沿いの田園地帯をのんびりと歩きました。これから田植えのために水が張られた水田もあります。

右岸ぞいを歩き下流側二つ目の橋を左岸側へと渡って秩父鉄道明戸駅まで戻る計画でしたが、4月中旬の急に暑くなった日差しに根をあげて最初の橋を渡って武川駅へと向かいました。

 

こちらは荒川の河岸段丘がよくわかり、緩やかに武川駅の方へと上っていき、その段丘に水田が広がっていました。農民センターという建物がありました。

 

13時6分に武川駅から秩父鉄道に乗りました。

明戸駅を過ぎると、六堰頭首工の幹線水路から分水された水路の上を3本通過しました。あの水が荒川左岸側の広大な水田を潤すようです。

 

 

*「六堰頭首工の歴史」より*

 

埼玉県のホームページに「六堰頭首工の歴史」があります。

地図を見ると、左岸側は新幹線の線路を越えて利根川に近い地域まで農業用水として使われているようです。

 

大里用水の始まり

 大里用水の歴史は古く、徳川家康の江戸周辺穀倉開発によって、西暦1602年(慶長7年)に現在の熊谷市と旧川本町(現深谷市)の境界付近の荒川に「奈良堰」を作ったのが、始まりと言われています。

 その後、十数年で約5kmの間に「奈良堰」から荒川の左岸下流に向かって「玉井堰」、「大麻生堰」、「成田堰」、右岸に「御正堰」、「吉見堰」(万吉堰とも呼ばれています。)の六つの堰が作られました。

 これら六つの堰から取水する用水は総称して「大里用水」と呼ばれています。

 

水争いと洪水

 荒川は、日照りが続いて雨が降らないと、極端に水が少なくなります。上流にある堰で水を取ってしまうと下流の席では水がなくなってしまうため、六つの堰を利用する農民達の間では、田植えのための水争いが絶えませんでした。

 また、逆に大雨が降ると、荒川はたちまち洪水となりました。簡素だった当時の堰は洪水の度に流されて、作り直さなければなりませんでした。

 

六つの堰が一つに〜六堰頭首工の誕生〜

 水争いや洪水に度々悩まされていた農民達は、これらの問題を解消させるため、大正末期に「大里用水路関係六箇水利組合連合」を結成しました。

 大正15年6月に既存の六つの席を統合する改良事業の施行を県に申請し、昭和4年度(1929年)から「県営用排水幹線改良事業大里地区」として県が施行することになりました。

 そして、昭和14年(1939年)に旧花園町と旧川本町の境界近くに六つの堰を統合した六堰頭首工」が造られました。

 

壊れてしまった六堰頭首工

 時は流れてそれから約60年が経った頃、「六堰頭首工」と「江南サイフォン(荒川の左岸から右岸に用水を送る幹線)」は、荒川の河床が低くなったり、コンクリートが古くなってきたりしたため、洪水で流される危険がありました。

 そこで、国と埼玉県と地元市町村が話し合い、「新しい六堰頭首工を造りましょう」ということになり、農林水産省が「国営大里総合農地防災事業」で改修工事を進めることになりました。

 しかし、その新しい六堰頭首工を建設している途中の平成11年8月14日、大雨の影響で荒川の水量が急激に増え、その水の力に耐えきれたかった旧六堰の固定堰の一部が壊れ、ながされてしまったのです。

 

生まれ変わった六堰頭首工

 いろいろな試練を乗り越え新しい「六堰頭首工」は、平成10年度から平成14年度までの5年間をかけ、農林水産省関東農政局大里農地防災事業所により整備され、ついに完成しました。

 そして平成15年4月1日から、埼玉県がこの施設を管理することになりました。

 また、六堰頭首工から取水した水を水田や畑に流す用水路も、老朽化が進み水漏れが多くなったり、付近に住宅が増えて台所やお風呂の水などの家庭雑排水が流れ込んで水が汚れたりするなどの様々な問題が起きました。そのため、六堰頭首工の改修工事と併せて水路の改修工事も実施し、平成27年3月に完成しました。

 

「荒川の恵み 四百年の歴史ある大里用水を次世代へ」、あの石碑から伝わる強い思いの行間を知ることができました。

 

 

4月は麦が美しい田園風景でした。

今度は、ぜひ稲穂の時期にも歩いてみたいものです。

 

 

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