子どもの頃から耳にしていた、念願の深良用水のそばを歩くことができました。
富士山と箱根の山々に抱かれたなだらかな斜面に広がる水田地帯は真冬でもこんなに美しいのですから、四季折々の変化を見てみたいものです。
Wikipediaの深良用水の「かんがい面積」に「527.153ヘクタール」と書かれていても数字ではピンとこないのですが、実際に歩いてみるとJR御殿場線の岩波駅と裾野駅の間だけでも広大な水田地帯でした。
深良用水沿いに御殿場線の踏切までの200~300mほどの間にも、「日本疏水百選 深良用水 五反田水門」「弥平治理樋」といった小さな水門があり、そこからいくつもの小さな水路が水田沿いに流れていました。
その踏切からわずか100mのところで、深良用水は黄瀬川に合流するのですが、黄瀬川の方がかなり下を流れているような場所であることがわかりました。
黄瀬川は田畑より低い位置を流れるため、農業用水には不向きな川であった。そのため江戸時代には、芦ノ湖を水源とする深良用水が築かれた。
(Wikipedia「黄瀬川」「歴史」)
数百年後には、「そのため、芦ノ湖を水源とする深良用水が築かれた」とさらりと書かれていく歴史ですね。
*深良用水の歴史*
Wikipediaの深良用水の「概要」とその断面図を改めて見ると、どうやってその場所を見極めたのだろうと、江戸時代の土木技術の凄さにまた驚きます。
富士山は成層火山のため、その雪解け水は富士山やその麓の地下を通って少し離れた場所に湧出しているが、他方で麓の一帯の表層部は火山灰を含む地質で水持ちが悪かったが、その一部である駿河国深良村(現在の静岡県裾野市深良地区)の農民たちは黄瀬川の水を用水として水田と畑地に利用していた。年貢米の石高増産を目的として、箱根外輪山に隧道を掘って芦ノ湖の水を新川経由で黄瀬川に混ぜて用水に利用し、深良地区の畑地の水田化を目指した。
水不足に苦しみ米づくりができない厳しい駿東のために、深良村名主大葉源之丞は芦ノ湖からトンネルを掘り湖水を導くことを考えていた。大葉源之丞は、江戸で商売をしており新田開発の経験のある友野与右衛門の協力も得ることとなり、友野与右衛門は寛文3年(1663年)に箱根権現にトンネル開墾の祈願を行った。
友野与右衛門、長浜半兵衛、尼崎嘉右衛門、浅井次郎兵衛の4名は、小田原藩と沼津藩の開発請負手形を提出し許可を得て、寛文6年(1666年)から寛文10年(1670年)までかけて掘り抜き工事を実施し深良用水は完成した。トンネルを掘って導くことは、当時としては高い技術と知識が必要で、費用も多額にかかったとされる。
小学生の授業で「芦ノ湖側と深良側の両方から手作業のみで掘り進めた」ことと「この2本のトンネルが出会った地点に1mほどの段差がある」あたりを聞いた記憶があります。
17世紀に人力だけで、わずか4年で完成させたこと、そしてすでにその「高い技術と知識」があったことに改めて驚きます。
ところで、訪ねる前にこの地域の郷土資料館がないか地図で探しても見つからなかったのですが、こうして記録を書くためにWikipediaを読んでいたら、次のように書かれていました。
世界かんがい施設遺産登録を記念し、裾野市民文化センター2階に、深良用水の成り立ちなどを紹介した映像、立体模型、用水関連の写真や測量道具などの資料を展示した特別展示室が設置されている。
行く前に気づかなかったのは、ほんと、痛恨のミスでした。
稲穂が一面に広がる季節にもう一度訪ねることにしましょう。
「米のあれこれ」まとめはこちら。