水のあれこれ 236 水攻めと数百年後の農業用水路

大鳥居の少し手前で二本の用水路が合流し、その用水路が潤す水田地帯の途中に水攻め史跡公園がありました。

水攻め史跡公園の「蛙が鼻築堤跡」にこんな説明がありました。

天正十年(1582)に羽柴秀吉備中高松城を攻めたが、城は典型的な沼城(ぬまじろ)で地の利を生かして守りが固いことから、容易に落城させることはできなかった。そのため、地の利を逆用しての攻撃が「水攻め」であった。

周囲が沼や湿田に囲まれている高松城は浅い盆地状の地形の中心に位置しており、そのただひとつの水の出口がこの蛙が鼻付近であり、築堤工事のもっとも重要な地点である。

水攻めの築堤は、基底部幅約24m、上幅約10mで高さ7~8mであったとされるが、明治36年の鉄道工事に際して築堤の土砂の大半が持ち去られてしまい、この「蛙がはな築堤跡」のみがかろうじて残されたと伝えられ、現在でもここから国道180号戦付近までが最も良好に築堤の痕跡が残されている。

 

その説明板に、備中高松城付近が洪水に見舞われて、かろうじて三の丸と本丸が水面から見えている写真がありました。

1985年6月に起きた洪水だそうです。

 

水攻めされた時もこんな感じだったのだろうかと、そんな残酷な作戦を思いつくことに身震いしながら用水路沿いに歩くと、途中の水門のそばに説明板があり用水系統図も書かれていました。

 

高松一宮西川(たかまついちのみやにしかわ)(農業用水路)

 

この用水路の名前は高松一宮西川といいます。この水は、一級河川高梁川から高梁川合同堰(総社市伊尻野地内)で取水した水が流れてきています。この堰で取水された水は県下でも有数のかんがい規模と古い歴史を持つ、湛井(たたい)十二ケ郷用水の松ノ木分水(総社市窪木地内)で、階田用水に分水されます。そして、階田用水を流れた水は、砂川・桜川・血吸川・足守川をサイフォンという作用を利用した工法で横断し、当地へと流れてきています。更にこの水は、岡山市北区吉備津地区周辺の田んぼを潤し農産物の生産に重要な役割を果たしながら流れていきます。この付近は、豊臣秀吉天正10年(1582)に行った、中国の役(高松城水攻め)で、足守川からこの付近まで築堤を行い、人造湖を造りだし高松城を孤島とし、兵糧攻めをしたことは、歴史的にもよく知られています。

農業用水路は、本来農業に必要な水を送るためのものですが、生き物の生息の場、雨水や生活排水の受け皿、防火用水などの多面的な機能を持ちながら、長い歴史と共に地域の財産として受け継がれています。この水の中には農業用水の貯水を目的に昭和30年に建設された岡山県新見市にある小坂部川(おさかべがわ)ダムから放流された水も含まれます。

 

用水路にも水攻めの歴史が描かれていることに驚きましたが、一枚の説明に数百年前から現代まで、この生活している場所を知る手がかりがまとめられていることを羨ましいと思いました。

 

 

それにしても、水攻めの築堤のための土はどこから持ってきたのでしょう。

沼地を水田に変え、干拓するための土はどこからきたのでしょう。

またまたわからないことが出てきました。

 

そしてこの用水系統図を見ていたら、また歩いてみたい場所が出てきてしまいました。

困りましたね。

 

 

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