地図で見つけた出水という場所を実際に歩き、大門川の旧河道が蛇行してすり鉢のような高低差があることを実感しました。
そして水田が今も残っていることに、もう少しこの辺りの歴史を知りたくなり大門川で検索したところ、「大門川の"大門”ってどこ?」というニュース記事がありました。
あの和歌川についても住民からの質問に答えていた「ニュース和歌山」です。
大門川は出水や太田、新在家付近を流れ、桜の名所としても知られます。川の名前にある「大門」とは何でしょう?大きな水門なのか、近くに立派な門があるのか…。
しかし、川をたどってみてもそれらしきものは見当たりません。どういうことでしょう?
太田郵便局西側にあった
「大門川はどこに"大門”があるの?」。戦国時代、和歌山市太田の辺りには太田城がありました。この正門である「大門」の前を流れていたことから、呼ばれるようになったというのが通説です。門の位置については、1930年発行の『和歌山県宮村誌』に「大門跡は大字太田字城跡四百四十五番地にあり」と書かれています。
一方、和歌山市立博物館の額田雅裕さんによると、「門があったのは現在の太田郵便局北にかかる橋付近です。ただ、中世の城に立派な門があったとは疑わしく、豊臣秀吉による水攻めの伝説を知った後世の人々が、城=大門と想像して名付けたのでは」と推察します。
ちなみに現在、大門川は和歌山の一部です。同じ川でも昔は村単位で呼び名が違い、和歌川もその一つでした。出水より東は宮井川、西を大門川、市中心部から和歌浦湾へ流れ込む河口までは和歌川と呼んでいました。1987年に「和歌川」と統一されましたが、今も宮井川、大門川の名は通称として残っています。
(ニュース和歌山/2021年10月23日更新)
「太田郵便局」はあの不思議な形に空き地が残ってコスモスが咲いていたあたりです。そして田んぼが残っていた「黒田」の南側が「太田」という地名なので、このあたりも水田地帯だったのかと思ったら、なんとお城があった場所のようです。
そしてまた「豊臣秀吉による水攻め」の歴史の場所だったようです。
児島干拓資料館を訪ねたときに豊臣秀吉の高松城水攻めのための堤防づくりの技術がのちに大規模干拓に利用されたことを知り、行田市の忍城(おしじょう)と備中高松城を訪ねましたが、「三大水攻め」のもう一つがこの「太田城(紀伊国)」でしたが失念していました。知識はほんと、なかなか身につきません。
「出水」という地名と、実際に訪ねてみた住宅地に残る田んぼ。そこが歴史の舞台だったのでした。
*「大門川の歴史」*
俄然、大門川に関心が出て検索したところ「ユーミーマン奮闘記」というブログに「大門川の歴史」(2018年1月21日)がありました。
地元のことを地道に正確にまとめていらっしゃる先人の記録に出会うのも散歩のあとの楽しみです。
古墳時代から室町時代の地図が掲載されていて、当時の川のながれが全く現在とは異なり網の目のようです。「大門川は現在の紀ノ川に近い川幅」で弥生時代は大門川の方が活発に物資を運ぶために使われていたものが、次第に「紀の川の主流が北へと移り水量が減ったことで、このように迂曲したのでしょう」と書かれていて、それがあの出水のあたりのことでしょうか。
そして「この大きく迂曲する流れは室町時代から、昭和30年頃まで続きます」とあり、現代の大門川の変化についてまとめられていました。
これは昭和22年ごろの大門川航空写真です。
秀吉水攻めの頃と同じく川は大きく曲がりくねっています。
しかし、昔に比べ水量が減り、川幅は狭くなってしまいました。
よく見ると川の周辺には家がありません。
普段水量は少ないのですが、台風や集中豪雨のたびに川は氾濫し、この写真の住宅地以外の所は浸水してしまい周辺の住民は冠水に悩まされ続けていました。
川が氾濫するところで溢れるので昭和30年頃にこの川筋をまっすぐに改修する工事が行われ現在の流路になったそうです。
今でこそ住宅地が広がりわずかの田んぼが残っていますが、昭和30年ごろまであの和歌山駅東口から数百メートル以内の地域は川の氾濫に悩まされていたということのようです。
川を浚渫し幅を広げ、北鴻神から出水にかけて大きく迂曲していた所をつなげて直線に流れるようにしました。
これによって太田や出水で頻繁に起こっていた水害は防ぐことができるようになり、川岸周辺には住宅が建てられるようになりました。
旧大門川は埋められずに雨水生活排水の溝として利用。
上空から眺めると円を描くように川がカーブしています。
西側には太田城があり、戦国時代にはこの川がお城の堀の役割を果たしていました。
川が直線になるよう工事が行われてから、今までのように水害に悩むことはなくなりましたが、この後新たな問題が起こってきました。
大門川上流に染色工場ができ、周囲に住宅地が広がった事により工場廃液や家庭排水がそのまま川へ流され水質が悪化。
それに加え、川として使われなくなった旧大門川に家庭排水が流れこみ川が下水のようになり、その流れが大門川本流へ流れ出し、川底はヘドロに覆われました。
私はこの川のある町に古くから住んでいますが、昭和の終わり頃にはメタンガスが沸き、川の側を通るだけで悪臭がするほどになったり、夏場真っ黒な色の油のようなものが浮いて、大量にフナが死んで浮いていた光景を見たことがあります。
その頃水質が全国ワースト1になったことがあるそうです。
昭和40年頃の中ノ島付近の大門川 上流の煙突は染色工場
貯木場としての役割もあったようで、木から染み出した灰汁が更に水質を悪化させました。
その後、国が工場排水の規制を行い、少しですが下水道もでき水質が改善。といっても平成10年度の水質調査では全国ワースト4位。
農業用水を紀の川から入れることで現在はもっと改善しているそうですが、まだまだ水質の良くない方の河川ランキングで上位になっています。
検索したところ、令和4年も農業用水路を活用して紀の川から導水して大門川の水質改善を図るための事業がありました。
あの和歌山線の車窓から見えた紀の川の堰からの用水路でしょうか。
なんだかすごいですね。
マップを最大限拡大しても現在では「太田城」に関わる場所がないのですが、期せずして三大水攻めの一つを訪ねることになり、そしてまた川がきれいになりはじめた頃の歴史を知ることができました。
地図を眺めていたら、もっと大門川沿いを歩いてみたくなりました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
「城と水」のまとめはこちら。