伊里を訪ね、岡山駅に到着して15時22分のJR吉備線に乗りました。
懐かしい水田地帯にある吉備津神社のあたりの風景を過ぎると、次が備中高松駅です。
駅前に「中国自然遊歩道案内図」がありました。
中国自然歩道は、中国5県を一周し、それぞれの地方に残された美しい自然のなかを歩いて、豊かな自然に親しみ、また、郷土の歴史や文化にふれて、私たちのふるさとを見直すための長距離自然歩道です。
岡山県では、自然歩道を5つのルートに大別し、さらに各ルートを1日で楽しめるよう、合計43のコースに区分しています。
ここはそのうちの「吉備路ルート」で、備中高松城跡から最上稲荷へ向かい、山道を西へと越えて足守(あしもり)の古い街並みを歩いてJR足守駅まで戻るコースのようで、1日コース延長14.1km、所要時間は5時間20分と書かれていました。
吉備線で通過するときに大きな赤い鳥居が沿線に見えるのですが、それが最上(さいじょう)稲荷の大鳥居で28mあるそうです。
「京都の伏見、愛知の豊川とともに日本三大稲荷に数えられ」と書かれています。2019年に豊川稲荷に行ったので、三大水攻めの跡とともに三代稲荷も訪ねられそうとよくよく見ると、参道の始まりの大鳥居から3.8kmも離れているようです。
主な見どころに「近水園(おみずえん)」があって、美しい庭園と池があるようですが、足守駅から4km離れているので、今回はこちらもまた時間がありませんね。
*備中高松城跡へ*
まずは備中高松城跡を目指しました。
●備中高松城跡
戦国期備中一円を支配していた三村氏の重臣石川久式が築城したといわれる。1582(天正10)年羽柴秀吉がこの周囲に堤防を築き、足守川の水を引き入れて、清水宗治が守る城を水攻めした合戦城として知られる。
駅の改札は南口だけなので一旦改札を出たあと、少し迂回して踏切を渡り、水田地帯の住宅街の細い道を北へと歩きました。
白っぽい砂、用水路と水田の風景は、祖父母の家の周辺を思い出させます。
5分ほど歩くと、水田の中の用水路に「ふなはし」と書かれた橋がかかっているのが見えました。
舟橋という地名は大事ですから近づいてみると、アオサギが飛び立っていきました。驚かせてしまいました。
説明板がありました。
史跡舟橋
高松城は平城で三方を堀で囲まれていたが、この南手口には具足の武士がようやくすれ違うほどの細い道があったが開戦直前に八反堀を掘り外壕とした。そこへ舟を並べて舟橋(長さ約六十四米)となし、城内より進攻の際はこれを利用し又、退く時は舟を撤去出来る仕組みで城の西北の押出式の橋と共に大きく防備の役を果たしていた。
高松城址保興会
今は用水路として使われているようで、水門が二つの板で分けられていて流量を調節しているようでした。
640年ほど前の風景とは全く違うことでしょう。
その水路から50mほど行ったところに、高松城址跡の公園が広がっていました。
平日の夕方でしたが、遊ぶ人や静かに史跡を歩く人など、けっこうな人がいたので驚きました。
この公園は1982年に造られたことが「宗治沼」の説明に書かれていました。
昭和57年に岡山市が歴史公園造成計画によって沼の復元をいたしました。
古来、本丸と二の丸の間(この池)に蓮池の地名が残されており、沼の復元によって自然に生えたものであります。
星霜四百年、地下に眠っていた蓮が、再び、立派な花をつけ、城址を訪れる方々の目を楽しませてくれることは、歴史の中にロマンがあり、水に守られ、水に散った城主・清水宗治公と蓮池との関連を追憶して去り難き感に打たれるものがあります。
この沼の説明文は昭和61年に書かれたようですが、この地域に数百年もの間に引き継がれた感情があるのかもしれません。
その間、地中に眠っていた蓮の種が咲くのですから、1000年とか2000年という時を超えて咲く不思議な植物ですね。
周囲は静かな田園地帯なのですが、何かぞわぞわとする気配に圧倒されながら次の場所に向かいました。
*水攻め史跡公園*
ここから南東の水攻め史跡公園を目指して、大鳥居の方向へと用水路沿いを歩きました。
ふらりと途中の村の氏神様のような神社に立ち寄ってみると、ここもまた水攻めにちなんだ場所でした。
旧立田(たつた)村の村社で、際神社「吉備武彦命(きびたけひこのみこと)」です。
創建は弘治年間(一五五五〜一五五八)です。
御崎神社のある旧立田村は、低湿地の中に葦が自生し、ツルが多く飛来していたため、「多鶴田」が「立田」の起源になったという説があります。旧立田村は江戸時代、庭瀬藩に属し、板倉氏の所領でした。
天正十年(一五八二)高松の役のとき、この御崎神社は秀吉配下の堀尾茂助の陣となりました。そのため神社の梵鐘が陣鐘として使用され、乱打されたために壊されたと伝わります。
その六月四日巳の刻(午前十時)水に浸かった御崎山の西麓に、高松城主清水宗治らを乗せた小舟が近づき、毛利勢・羽柴勢が見守る中で、宗治公ら四人が自刃しました。宗治公の首級は、秀吉本陣となった次鋒院境内に葬られました。その後、寺宝院は辻地区に、首塚は高松城本丸跡に移されています。
「水に浸かった御崎山の西麓」の「御崎山」がこの裏手の小高い場所で、ここから用水路沿いに行くと「水攻め築堤」が一部残った場所が保存されていました。
秀吉は高松城の攻略を、軍師黒田官兵衛の策を採用して水攻めにし、城地の南東約700mの山根(蛙ケ鼻、かわずがはな)から、西北西約1,500mの足守川上流まで約3kmの堤防を、わずか12日間で築いたと伝えられています。堤防の内側は約200haの人造湖隣、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまいました。
江戸時代の地誌類では、基底部幅24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤と記録されています。近年の一部発掘調査によって基底部幅約22~24m(12~13間)ということが確認され、築堤に際して土留めなどに使われたと思われる木杭や、土俵・むしろ等が確認されました。
残っている築堤に登ってみると、3~4mほどの高さでしょうか。
ただし、先ほどの公園にあった模型では、当時の本丸が7mだったのに対してこの蛙ケ鼻の現存築堤高は8.4mとありましたから、その後の干拓によってだいぶ高さが違うのかもしれません。
水攻めの堤防造り技術をヒントに大規模干拓が始まったという干拓の歴史への関心から今回訪ねてみたのですが、攻められた側の思いがあちこちの説明板に記録されていました。
理不尽にそして残酷に攻められた側は何世紀にもわたって歴史として伝えていくのだと、今の状況と重ね合わせながら駅へと戻りました。
「散歩をする」まとめはこちら。
「城と水」のまとめはこちら。
蓮についてのまとめはこちら。