記憶についてのあれこれ 171  36年前のプリピャチ

チェルノブイリ原子力発電所事故が起きた当時、私は東南アジアで生活をしていて、「大変なことが起きた」くらいの認識はあったのですがあまり記憶に残っていません。

 

「西側諸国が異常に気づいたのは、事故発生から2日が経過したあと」というぐらいなので、ニュースとして知ったのは4月も終わりの頃だったのかもしれません。

住んでいた国も大混乱の時期で、国内紙はあてにならず、1週間遅れでまとめて配達されていたインターナショナル・ヘラルドトリビューン紙しか情報源はありませんでした。

 

その後も、事故後の全体像を知るには私自身の知識もないままでした。

Wikipediaの「死者数」を読むと、私だけの問題でもなく、当時は原子力爆弾と原子力発電所事故と専門家の中でも判断が混乱していたのかもしれません。

 

長いこと、チェルノブイリについては、「石棺」「住民の移住」「チェルノブイリで汚染されたきのこ」「小児がん」といったイメージのままでした。

あの福島第一原子力発電所事故のあと、ますます違う方向に利用されている地名になってしまったようで、いつかきちんとあの歴史を読み返さなければと思いつつそのままになっていました。

 

*「地図上にない閉鎖都市」*

 

チェルノブイリについても、頭の中の地図には正確に描けていませんでした。ベラルーシ国内と勘違いしていて、ウクライナだったことさえ失念していました。

そして、プリピャチ川とドニエプル川を航空写真でみていくと、こんなに人を寄せ付けないような湿地帯だったことに驚きました。

もっと東欧ののどかな農業地帯に建設されたイメージでしたから。

 

原子力発電所があったプリピャチについて読むと、チェルノブイリという地名はドニエプル川人工湖の対岸の地名だったようです。なぜ、「プリピャチ原子力発電所」としなかったのでしょうね。

 

「歴史」にはこんなことが書かれていました。

ソビエト連邦時代の1970年2月4日、チェルノブイリ原子力発電所の建設と合わせて創建された計画都市である。当時は地図上にない閉鎖都市であり、厳重な警備体制が敷かれていた。

 

「地理」にどんな人たちがどのように暮らしていたかが書かれています。

事故直前の人口は13,414世帯49,360人で、大半がチェルノブイリ原子力発電所の従業員とその家族だった。また、独身者や子どもも多く、市民の平均年齢は26歳と比較的若かった。

市章は原子モデルをあしらい、市のモットーも原子力に因んでいた。市内にはエレベーター完備の集合住宅などの近代的な建物や4つの病院、エルゲティック文化会館、バスィエン屋内プール場、アバンガルト・スタジアム、公園などの様々な施設が建てられ、ソ連国内有数の充実した社会インフラを有していた。

 

もし事故がなければ、その5日後に開園される予定だった遊園地の写真も載っていました。

 

航空写真でみても、周囲には湿地や森林が広がっている場所のようです。

広大な湿地、そして人工湖の水もあるから、この場所が選ばれたのでしょうか。

 

断片的な記憶とイメージしかなかったこの事故でしたが、川をたどることでもう少しだけ正確になりました。

 

 

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