水の神様を訪ねる 59 戸塚安行から草加までの3つの氷川神社

埼玉スタジアム線戸塚安行駅から東武スカイツリーライン草加駅まで歩いたのですが、最初は2箇所の氷川神社を訪ねる計画だったのが、期せずして3箇所を訪ねることができました。

 

*安行氷川神社と九重神社*

 

一つ目は、尾根筋の高台にあった安行氷川神社です。

社殿が朱塗りの鮮やかな建物でした。

 

御縁起(歴史)

 往古、鎮座地は老杉の茂る神さびた所で、『郡村誌』には「社地中に杉の大木あり」と記録されている。この大木は旧社殿の東隣にあったもので、昭和二十年代に自然枯死したため、伐採売却され、その代金の一部を持って社殿を改築している。この時、社殿は三〇メートル余り西の現在地に移転している。

 祭神は素戔嗚尊(すさのおみこと)で、本殿には衣冠男神座像が奉安される。

 社蔵の棟札によると、元禄十三年(一七〇〇)十二月に当社の拝殿が造営されている。当時の別当住僧は、白現房快宥である。快宥は、越後国出雲崎町にある円明山快栄法印の弟子で、学問修行のため、縁あって当地の真言宗赤芝やま円福寺に入り、当社の造営に助力する。住居は、当地の中山氏が山林二畝一八歩に証文一通を添えて寄進している。この円福寺は、当社の南西側にあったが、明治初年の神仏分離により廃寺になっている。

 明治期、当社は大字安行原に鎮座する九重神社に合祀されることになったが、氏子が一丸となって反対したため合祀を免れている。『明細帳』によると、明治四十年六月七日、大字安行字立ノ﨑の無格社氷川社、字大原の無格社神明社、字宮下の無格社金山社、字宮越の無格社浅間社を合祀している。このうち氷川神社は当社本殿に合祀し、他の三社は境内に合祀したため、現在、境内に三社様と呼ばれる社がある。

 

1700年ごろだと、まだ見沼溜井の干拓の前なので、この辺りは水辺を見下ろすような場所だったのでしょうか。

 

二つ目に立ちよった神社は御由緒は分かりませんでしたが、「九重神社(氷川神社)」とありました。

実際に訪ねてみないと地図だけではわからないものですね。

登ってきた石段を境内から振り返ると、ちょっと足がすくむ急斜面の場所に立っていて、お隣はお寺とお墓が斜面にあり、庭木の手入れをしている方々がいらっしゃいました。

 

草加氷川神社

 

氷川通りを左に曲がると、木々の緑が美しい氷川中公園があり、蒸気機関車が展示されていました。子どもたちがたくさん遊んでいて、水路をへだてて草加神社の境内で立派な社殿がありました。

 

草加神社本殿

 

 草加神社は氷川社ともよばれ、天正(一五七三〜一五九二)の頃、小さな祠を祀ったのが始まりと伝える。その後、享保二年(一七一七)四月十六日、正一位氷川大明神の位がおくられている。明治四十二年(一九〇九)に付近の十一社を合祀し、社名を草加神社と改めた。

 本殿は、間口二・二七メートル、奥行き一・九一メートル、向拝の出一・七三メートルの一間社流造(いっけんしゃながれづくり)である。

 建物は天保(一八三〇〜一八四三)頃の造営と伝えている。

屋根は銅板板葺とするが本来は桧皮葺(ひわだぶき)か柿葺(こけらぶき)であったと思われる。棟をT字型に配し、正面に千鳥破風(ちどりはふ)を見せているのは棟に鰹木(かつおぎ)・置千木(おきちぎ)を用いているのと合わせて装飾性も持たせるための手法と思われる。銅板葺のやや厚ぼったい軒先は護持のためやむをえないが、現在は本殿全体を保護するために覆屋が作られているので。流造本来の姿に戻せたらと思われる。

柱・桁などの構造材には欅材を用い、木太く雄大な姿を見せる。

配される彫刻は建物本体を凌駕するほどではないが、優美な姿を見せる。

題材は中国の仙人の物語に由来する。木鼻や手挟(たばさみ)は籠型に仕上げている。

 平成十六年に拝殿が整備されその姿は一新された。本殿廻りの旧玉垣には弘化三年(一八四六)の銘が刻まれていたが、現在は本殿と木造の隙塀が一体となって美しい様相を見せている。

 平成二十二年三月  草加市教育委員会

 

 

草加駅周辺は平地に見えたのですが、利根川、荒川などに挟まれたこの地域で、十六世紀には氷川神社の前身となる祠が造られたようです。

当時はどんな風景だったのでしょうか。

 

 

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