水の神様を訪ねる 67 見沼通船堀公園から附島氷川女体神社へ

5年前初めて見沼代親水公園を訪ねた年も「雨が多い夏だった」と記録していましたが、今年も本当に雨が多い夏でした。

 

今年はさらに7月下旬から8月初旬には都内の感染者数が3万人台になり、未曾有の感染症で先が見えない状況が続いていました。自宅で検査、自宅療養が基本へと変化していきましたから、実際の感染者数はどれくらいだったのかもはやわからなくなりました。

通院・入院中の妊産婦さんから「家族中で発熱」という話が一気に増えたので、政府の感染対策を緩和する方針とは違って、今までの冬のインフルエンザ流行期でもこんなに大人が家族中で発熱したことはないという事態でした。救急車も出払っているとか入院先が見つからないのは勤務先の周産期ネットワークも同様でした。

 

休日はいつも雨だったことと、家族が感染したスタッフの代わりに急な出勤の可能性も増えるので出かけるのを控えていた8月で、この散歩の記録には「久しぶりの散歩」とメモしていました。

 

*通船堀公園*

 

雨が降ったり止んだりの日でしたが、散歩をしたくなりました。

 

お昼過ぎに家を出て、JR武蔵野線東浦和駅に到着した時には蒸し暑いながらもなんとかお天気がもっていました。

駅前に「見沼たんぼ周辺の文化財案内」の大きな図があり、気持ちが高まります。

 

今までは通過しただけの駅ですが、実際に降りてみると高台にあるように見えました。

県道103号を南へと歩き始めるとくだり坂で、150mほどのところに水路と竹藪が見えました。

水路は見沼代用水西縁で、高台のすぐ下を通っていることがわかりました。

 

通船堀に向けてはまたくだり坂で、斜面に竹藪があるようです。

改修工事中でしたが、その少し小高くなった竹藪を右手に水路沿いを歩いてみました。反対の北側には水田や住宅地が広がっていて、見沼代用水西縁と東縁に挟まれた地域です。

 

説明板がありました。

 見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河です。

徳川幕府の命を受けて、見沼の新田開発を行った幕府勘定奉行井沢弥惣兵衛為永によって、享保十六年(一七三一)、東西の見沼代用水路(農業用水路)と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。

 見沼代用水路と芝川の間の、三メートルの水位差を調整するために、東西とも二ヶ所ずつの閘門が設けられていました。

 通船堀の開通によって、江戸からの船が見沼代用水路縁辺の村々へと舟運が発達しました。

 この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、その遺構は、我が国の土木技術や産業交通の発達を知る上で、極めて貴重なものといえます。

 平成24年3月  さいたま市教育委員会

 

*附島氷川女体神社*

 

通船堀に沿ってしばらく歩くと、竹藪が終わり高台へと上る道がありました。県道103号が東西へと通っているのですが、南側へとまた下坂になっていて一見尾根のように見えます。

 

この日は二つの氷川神社を訪ねる計画で、その一つの附島氷川女体神社がこの県道103号沿いのさらに少し小高い場所にありました。

御由緒に、八丁堤ができるよりももっと前からの歴史が書かれていました。

御縁起(歴史)

 かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島(つきしま)という地名も、こうした太古の海の名残の一つで江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。

 この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(みむろむら、現緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二十石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永六年(一六二九)以降のことであるから、当社の創建はその時期よりやや降るころと推測される。

 『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。附島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる、なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四~七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。

(強調は引用者による)

 

 

県道103号線から石段を登った境内からは南側が見下ろすことができ、かつては海が広がっていたことを想像できる地形でした。

そして尾根のように小高い場所が見沼溜井を作るための堤であったようです。

地図で「八丁堤」を探しても見つからない理由でした。

 

ここから北へ2kmほどのところに「緑区宮本」がありますが、そのあたりまで水没するくらいの巨大な溜池が江戸時代初期に造られ、その後干拓で水田になり溜池の堤防のそばが運河として利用された。

ようやく少しわかりました。

 

このあともう一つ、氷川神社を訪ねます。

 

 

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