水の神様を訪ねる 10 江古田川と妙正寺川の水の神様

江古田川の水源から歩いてみたかったのですが、地図を眺めているうちに5つの氷川神社を訪ねてみようと欲張った計画になり、豊玉南にある氷川神社からのスタートになりました。

 

バスで豊玉中で下車すると、目の前に鎮守の杜が広がっています。ふと後ろを振り返ったら、バス停のそばには、新たな地下調整池を建設中でした。

 

*江古田川の氷川神社

ひとつ目の氷川神社に入ってみました。

社伝によると、主神は北野神社が最も古く、次いで須賀神社、その後、 大宮一宮の分霊を勧請して氷川神社を主神にしたといいます。

 30度近い日でしたが、境内は涼しく静かでした。

境内の片隅におもしろい記念碑がありました。明治時代には、このあたりでビール麦や「金子ゴールデン」というメロンが栽培されていたことが書かれていました。

 

環七に面した参道から入ったときにはわからなかったのですが、南側の参道を出ようとしたら、結構な階段になっていました。そこから緩やかに下り坂を降りて、江古田川の暗渠よりも一段高い道を歩いて、下徳田橋につきました。

 

突如として始まる川ですが、コンクリートの底にわずかに水があるだけでした。両岸に木がしげり、そばに修道院がありました。

このあたりには病院や介護施設がいくつもあります。中野江古田病院の歴史を読むと、昭和7年にこの地に開設されたようですから、おそらく人里離れた場所だったのだろうと想像しました。

 

今は大きな総合東京病院が建ち、江古田川に沿って江古田の森公園が整備されていて、都会の風景そのものです。

病院の敷地を過ぎると小高い場所があって、もう一つの氷川神社があります。由来を探してみたのですが、見つかりませんでした。

 

妙正寺川氷川神社

 

江古田川の側にあった氷川神社の前は参道だったと思われるまっすぐな道をぬけ、新青梅街道を越えると百観音公園があります。

近畿地方の西国三十三観音、関東一円の坂東三十三観音、そして秩父の三十四観音、合わせて百の観音様を一体一体拝みながら、昔の人は壮大な旅をしました。(百観音明治寺のHPより) 

 

ちょうど、その頃に再放送していたブラタモリで、「観音というのは衆生の声を聴く」という話がありました。ああ、そうだったのかと観音様のこともよく知らないままだったと、こんな時期ですからなおさら心に染み入ったのでした。

 

百観音公園の南側は、ここもまた急な下り坂になっています。これは妙正寺川河岸段丘のようです。沼袋駅の近くに、3つ目の氷川神社がありました。今は安産・子育ての神社のようです。

西武線を超えると、少し上り坂になり、北野神社の境内と池がありました。

 

その向かいが新井薬師で、新井薬師駅の前の道を東へと歩くと、道路の先が急に見えない場所があります。ここも妙正寺川河岸段丘で、下り坂になるその手前の段丘に沿って歩くと4つ目の氷川神社がありました。

上高田氷川神社で、段丘の斜面を利用して建てられていました。

当、氷川神社は上高田一円の鎮守として享徳二年(1453)に素盞嗚尊の御神徳をしたう土地の人々が、武蔵国一の宮氷川神社より御神霊を勧請し、お社を建てたのを嚆矢(こうし)といたします。 

 さわさわと鎮守の木々の音だけがきこえていました。氏子の方々に丁寧に守られていることが感じられる、静かな神社でした。

 

妙正寺川神田川が落ち合う場所の氷川神社

 

一旦、新井薬師前駅に戻り、西武線に乗って下落合で下車し、今日の最後の目的地に向かいます。

以前落合水再生センターを訪ねた時にこの辺りを歩いたのですが、日本中に「落合」という地名を見つけるようになって、ああ、ここは妙正寺川神田川が合流する場所から落合になったのかと理解しました。

その場所にも、氷川神社があります。

 

新目白通りに面しているのですが、一段高くなっていて、さらにもう一本北側の道から上り坂になっています。近くには薬王院という大きなお寺の森がありました。

 

以前、新宿歴史博物館を訪ねたときに、大正から昭和の初め頃まではこの近くにある乙女山のあたりは夏にはホタルの名所だったと知りました。山手線のすぐそばにホタルが育つ水があるったなんて信じられないなと思いながら、2年ほど前にそのおとめ山公園を訪ねてみて驚きました。今も湧き水がまだあったのです。

 

妙正寺川神田川が合流し、近くの山からは清流が流れていたこの場所に、氷川神社が建てられてこの地域を守っていたのですね。

 

水の神様を辿っていったら、3年越しでこのあたりの水の流れがつながってきました。

 

 

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