水のあれこれ 253 「岩木川とその支流の一覧」

岩木山の麓、岩木川の両岸に水田やりんご園が広がる風景は、想像以上の美しさでした。

土淵堰や縦横無尽の水路、あるいは岩木川の堤防の内側にあるりんご園などは、どうやってそれを維持してきたのでしょうか。

 

雨だけでなく、豪雪地帯ですから融雪洪水はどうなのでしょう。

岩木川は大きな水害はなかったのですか?」とタクシーの運転手さんに尋ねると、私より一世代ぐらい上の方でしょうか、「最近は洪水はないね」とのことでした。

 

岩木川周辺の水害を検索してみたのですが、頼みの綱のWikipedia岩木川はあっさりした内容で水害についての記述もなく、「支流」にはたくさんの河川名が書かれているのですが全て赤字で詳細な説明もありません。

ふと「詳細は岩木川の支流の一覧を参照」をクリックしたところ、なんと44ページにも及ぶ本流と支流の説明がありました。

 

十三湖と鳥谷(とりや)川*

 

十三湖のほとりから見えた干拓地は、戦後の国営十三湖干拓事業で十三湖の内側へと陸地を広げていったものと思い込んでいましたが、鳥谷川の説明で掲載されている「1948年の十三湖南岸と内潟周辺」「2014年の十三湖南岸の航空写真」という2枚の写真を見比べると、元々このような地形の潟であったようです。

溜池を出た川は中泊町の水郷地帯を北流し、津軽山地の山々から西に下ってきた宮野沢川、尾別川などの支流を集める。これら支流が集まる一帯は、以前は岩木川の右岸から十三湖にかけて連なる湿地帯となっていて、「内潟」「内潟沼」と呼ばれる池があった。鳥谷川は内潟を経て十三湖に注ぎ、薄市川は単独で十三湖に注いでいた。この一帯は、冬に十三湖の河口が閉塞するたびに水が逆流して氾濫し、年に何回も水害を受ける地域だった。これが1948年(昭和23年)以降の干拓事業によって現在のような農地となり、各河川の川筋が今のように定められた。

(強調は引用者による)

 

「冬に十三湖の河口が閉塞」の意味が、一覧の中の「せばと川」に書かれていました。

十三湖はかつて、冬になるたびに西寄りの強い季節風の影響で、砂によって河口が閉塞していた。それに伴って河口(水戸口)も移動しており、せばと川の前潟、後潟、明神沼はその名残である。史料ではこれらの移動する河口を「狭門(せばと)水戸」「古水戸」などとも称している。今の水戸口は1947年(昭和22年)に整備されて恒常的な河口となった。

 

「河口が閉塞する、河口が移動する」なんだか想像もしない状況でしたが、「恒常的な河口」になったのが1947年で、ほとりから見えた大きな橋もそういう経緯があったからなのですね。

十三湖のしじみのおかげで漁師は出稼ぎから解放されたというのは、あの強い風で河口が変化し水害を受けることからも解放されたという意味なのかもしれません。

 

*馬鹿川の由来*

 

十三湖」に、その冬の水害について書かれていました。

十三湖には津軽山地の北部(中山山地)などから発する支流が注ぐほか、岩木川十三湖に注ぐ際に形成する三角州による分流が何筋も形成されており、石川、三本川、西川などがこれにあたる。冬に水戸口が閉じると、岩木川から注ぎこむ水によって十三湖の水位が上がって氾濫し、周辺の発展を阻害してきた。このため排水路としていくつもの人工河川が築かれており、その一つが馬鹿川である。これはもともと十三湖への排水路として築かれたものだが、十三湖が増水するとかえってこの排水路から湖水が逆流してくることから馬鹿川と呼ばれるようになったものである。これらの川は、岩木川の河道改修の結果、いずれも今は岩木川に直接接続されてはいない。このほか干拓によって「内潟」「大沼萢」などの周辺の低湿地・湖沼地帯も水田にかわり、湖そのものの水域も狭まっている。

 

1970年代に入る頃まで、「腰切り田」「乳切り田」と呼ばれるような「萢(やち)」では、私がイメージする「水害」はむしろ日常生活だったのでしょうか。

 

それにしても「あっさりした岩木川の説明」と思ったら、小さな川や溜池まで詳細に地理や歴史が書かれていて圧倒されたのでした。

 

 

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