ここからが今回の散歩の計画で最も悩んだスケジュールです。
さて、二日目は十三湖を訪ねたあと、五能線で弘前へと戻ります。
通常は先へ先へと進む旅程ですが、今回戻る日程になったのは十三湖を訪ね、そして岩木川周辺の承水路の歴史を訪ねることを全て可能にしてみたいと欲張ったからでした。
地図で土淵堰と溜池をたどっていくと、土淵堰と廻堰大溜池の間に水路が交差している箇所があります。さらに弘前方面へとたどると、途中で大石川と前萢川が合流する場所を土淵堰が二手に分かれながら突き抜けるような場所がありました。
何がどうなっているのだろうと航空写真に切り替えながら何度も眺めてみましたが、よくわかりません。
ぜひここを訪ねてみたい。
もちろん公共交通機関は全くないですが、車道らしき道はありそうです。
これはタクシーしかないだろうと、五所川原から弘前方向へと土淵堰沿いにタクシーに乗ることにしました。
ところで、前萢川の「萢(やち)」は「湿地と言う意味がある。日本で作られた漢字である」(「漢字Mix」より)だそうです。
*世界かんがい施設だった*
検索していたら、西津軽土地改良区の「土淵堰の世界かんがい遺産登録について」がありました、
概要〜津軽平野(8,300ha)を潤す地域発展の命運をかけて開作された大用水路〜
本地域は、標高の低い大規模湿地帯だったが、1644年に水田開発を目的として頭首工や溜池、開水路の建設が行われた。現在では8,300haの農地に用水を供給することで、地域農業の安定と発展に寄与するとともに地域経済に大きく貢献している。
本施設は岩木川の下流域に位置しているため、上流では大量の水が溢れる構造の堰(石留)、中流は少量の水が通過する構造の堰(蛇籠)、下流は完全締切りの構造の堰(俵留)を設置して、下流域にも用水が供給されるように工夫している。
これは、当時の行政府が下流域での水不足を解消するために、留(取水口)の構造や設置に関する手引書を作成して指導していたためである。
また、開水路の延長は16kmに及ぶが、当時は測量技術が乏しく平地の高低差を見分けることが困難だった。
そのため、自然河川の流域を踏査して結びつける「堰筋見分」という手法で測量することで、通水可能な勾配を確保した。
施設の設置後、1875年頃までは地域の排水秩序や施設の補修を行うために、地位の高い役職である「土淵堰奉行」が配置されており、維持管理や排水管理を徹底することで、安定した用水量の供給を確保した。現在では、農家組織を中心として適切な維持管理が行われている。
また、当時補給的に用水供給するために築堤された「廻堰大溜池」は、受益面積の拡大とともに回収され、現在では堤体長が日本一の4,100mを誇り、現在も安定した用水を供給し続けるとともに、景観に配慮した公園が整備され、地域の人々が安らげる憩いの場として利用されている。
あの土淵堰と川の不思議な交差部分の写真が掲載されていて、「野木定盤分水工」であることがわかりました。
*美しい水田地帯とりんご園をまわる*
五所川原駅前でタクシーに乗りました。幹線道路から大きく外れるので事前に紙に道順を書き出して、「土淵堰沿いに進みたい」ことを伝えました。
私が道案内するような感じで、土淵堰沿いへと入りました。道路より少し高い位置に流れる水路に、田植えの時期のためか滔々と水が流れています。
あとはこの堰に沿って、廻堰大溜池から野木定盤分水工へとただただ水路を眺める予定でした。
ところが地図で描かれていた道は細い農作業用の道のようで、行き止まりになったり反対側から農家の方の車が来たり、タクシーで通るのは不向きのようでした。
私の準備不足ですから致し方ありません。計画を大きく変更し、板柳駅に向かっていただいて、周囲の風景をただただ眺めることにしました。
どこまでも平地で水田地帯が広がり、岩木山が少しずつ姿を変えながらもずっとそばにあります。
岩木川の堤防が近づき、しばらく堤防の上を走りました。
堤防の内側に畑や水田があるのはよく見る光景ですが、岩木川の風景は違いました。「堤防の内側もずっとりんご園だよ」と運転手さんが教えてくださった通り、りんごの森のようです。
ところどころ青い川面が五月晴れの光に反射して、ゆったりと流れています。
なんと美しい風景でしょう。
じゃじゃ馬のようにねじ伏せなければならない川で「水浸しの平野」だったとは、想像がつきません。
土淵堰沿いを走るという計画は失敗に終わりましたが、何度も鳥肌が立ちながらあっという間の40分でした。
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