水のあれこれ 306 十二町潟の水害と排水

朝日丘の八幡神社の御由緒に書かれていた疎水(新川)はどれだろうと地図を眺めたのですが、Macの地図には水路の名前が載っていないことが多いので見つけられませんでした。

 

「水土里(みどり)ネット氷見」のホームページの「十二町潟を拓く」を読んでわかりました。

「水害とのたたかい」の「新川ができるまで」を読むと、現在の仏生寺川(ぶっしょうじがわ)の河口までの数百メートルのことのようです。

 

2-1 新川ができるまで

 平安時代から江戸時代までの十二町潟の排水路は、現在の湊川に出て、富山湾に流れていました。しかし湊川は川幅が狭く急カーブが2ヶ所あったため、大雨の時には田んぼに水がつき、人々は大変苦労をしました。

 そこで新しい排水路を作るため3度も加賀藩にお願いしましたが、下流の氷見ちょうからの反対にあい、なかなか実現できませんでした。

 しかし氷見町にも水害があったことで、反対者が少なくなり十二町村の豪農「矢崎嘉十郎」が何度も願い出てやっと許可が出ました。そして明治元年、新川を掘る工事が始まりました。川の大きさはおよそ上幅(うわはば)22m、下幅18m、深さ4m。当時は機械がないのでクワなどを使い人手で、74,434貫(今のお金で約100億円)の費用をかけて明治2年に完成しました。

 

 

氷見漁港から湊川沿いに歩いた時には、仏生寺川が十二町潟からの流出河川でその流れを運河のように開削したのが湊川だと思っていましたが、全く逆でした。

あの直角に曲がっていたのも、もともとの地形と流れだったようです。

 

2-2 稲作の苦労

 新川ができたことによって、十二町潟の排水は昔に比べて大変よくなってきましたが、それでも年に1・2度は稲が水につかりました。そのような水害をなくすために、曲がりくねった仏生寺川をまっすぐにし、湿田を乾田にするよう努力したのが睦田(むつた)家8代目の九左衛門でした。

 

*「湿田から乾田へ」*

 

地図をよく見ると、湊川と仏生寺川が分かれるところにそれぞれの川に堰があるようです。

行く前に気づいていれば立ち寄ったのですが、残念ですね。

この場所についても「3  湿田から乾田へ」で説明が書かれていました。

 

3-1 排水機場・潮止め水門

 明治19年までにはおよそ120ha、昭和21年にはおよそ500haまで開田が進み増田。昭和21年ごろからは現代的な工法で潮止め水門や排水機場の建設が国や県により進められ、よりいっそう乾田化が進みました。

 現在、国で作った大きな排水機場のおかげで、元十二町潟であったところに工場や家が建てられるようになったのです。

 排水機場には、すいこみ口の直径が80cmのポンプが1台、2mのものが3台あります。

 

3-2 用水路と排水路

(1)用水路について

 十二町潟はいつも10cm~30cmの水位があり、あまり用水には苦労しませんでした。それでも夏になると、用水不足になり、足ふみ水車やバケツで水をくみ入れていました。水不足は下流に行くほど激しくなり、用水路の堰を高くして水位を上げ田に水を入れるように工夫しました。それでも、水によるもめごとがよくおきました。

 現在では、福岡町(ふくおかまち)に五位(ごい)ダムができ、そこから用水を引いてきて十二町の近くにある岩田池、尾谷池、矢田部谷内(やち)池などのため池に用水を貯め水不足を解消しています。

(2)排水路について

 十二町には大きな排水路として万尾川と仏生寺川があります。万尾川については、現在富山県下流側から回収して、田や宅地に水がつかないようにしています。

 

 

この「十二町潟を拓く」を読んで、ああそうだったのかと川や水路の関係がよくわかりました。

ちなみにこの資料は小学校4年生ぐらいを対象に書かれているようで、自分が生活している場の地形や歴史を知ることができるなんて、現代の子どもたちは羨ましい限りです。

 

 

 

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