利根川左岸にある明治43年大洪水の碑について、千代田町のホームページの「危機管理室」に「過去の災害」として詳しい説明がありました。
千代田町は、利根川に面しているため、古来より度重なる利根川の洪水に見舞われ、大きな災害を受けてきました。
記録によりますと、利根川本流は元禄以前は対岸である埼玉県熊谷市葛和田はずれを流れていたと伝えられ、現在の千代田町舞木・赤岩ともに今の川瀬は畑地であって、元禄12年(1699年)の大水によって赤岩の畑地は潰され川瀬となり、享保17年(1732年)の満水には舞木堤際へ本流が突き抜け、その後は舞木・赤岩とも堤防近くを流れるようになったため、多くの畑地を失ったといわれています。
また、大きな被害を出した洪水の一つである明治43年(1910年)の利根川大洪水の後、川幅の大拡張等が行われ、現在のような利根川の形になりました。
それでは、資料が残っているなかで、最も被害の大きかったといわれる明治43年の利根川大洪水についてみていきましょう。
明治43年(1910年)8月、長雨が降り続き、ついに8月11日午前0時30分に富永村(千代田町は西部が旧の永楽村、東部が旧の富永村で昭和30年に合併)大字上五箇駒形地先、同2時に富永村、佐貫村(現在の明和町)入会地先の堤防が決壊し、未曾有の大洪水を引き起こしました。この洪水は、田畑や家屋を次々と濁流で飲み込んでいき、ついには死者14名、郁恵不明者28名、負傷者3名(資料により数が異なります)という大惨事となりました。
この惨事を記するものとして、千代田町大字上五箇の青年研修所跡(現在の消防団詰所)に昭和10年に富永村が建てた水害記念碑があります。
記念碑には、当時の惨状の様子が刻み込まれています。この碑によりますと、洪水は「濁水魔の如く暴威を逞(たくま)しう」く、「田畑は概ね砂礫に埋もれ」てしまい、村民は「財を失うて、衣食に道なく前途暗澹(ぜんとあんたん)として、酸鼻(さんび)を極め」たそうです。以上のように当時は大変な状況であったことがうかがいしれます。
その次の災害の記録は平成10年(1998年)のものでした。
平成10年9月台風5号
平成10年9月15日夜半から16日昼過ぎにかけて台風5号が上陸し、昭和22年のカスリーン台風の時の水位についで戦後2番目の高い水位を記録しました。
この台風は、各地で大きな被害をもたらしましたが、幸いながら千代田町には大きな被害には及びませんでした。普段千代田町を流れる利根川の水位は、1.6メートルくらいですが、このときは最高水位で6.4メートルを記録しました。
その時の状況が以下の写真です。左側が通常の利根川の様子、右側が台風5号が通過した後の利根川です。
(写真は略)
比較していただければ、いつもは穏やかで恵みを与えてくれる利根川が、凶暴に歯を剥き出した荒れ狂う利根川となっていることが、伺えるのではないかと思います。
写真では利根大堰の付近が「まるで湖のよう」になっていました。
Wikipediaの「平成10年台風第5号」を読んでも、この利根川中流が危機一髪のような水位になった記憶が全くありません。
1998年ごろはまだ私自身、水害への危機感がほとんどない時期でした。
明治43年の大水害以降、利根川の堤防改修計画が見直され、一世紀ほどはこの左岸の千代田町に浸水被害がほとんどなかったことが町内に「浸水想定深」の表示を見かけない理由だったのでしょうか。
それにしても、自治体のホームページでこうした過去の災害の記録を読めるのは大事なことですね。
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