記録のあれこれ 138 荒川神社の築堤記念碑

荒川神社で検索するとぱっと目に入ったのが「治水の神」だったので、ああやはり水の神様だったのかと思ったところ住所が違ってこちらは姫路にある荒川神社でした。あの播磨五川のひとつ夢前川の治水の神様のようです。

 

熊谷の荒川神社の御由緒は見つけられなかったのですが、「熊谷市Web博物館」の「常設展示室 石造物の部屋」に境内にあった石碑についての説明に経緯が書かれていました。

築堤記念碑

 

明治36年の荒川護岸工事竣工を記念して建てられた記念碑で、裏面には、工事に携わった人の名前が刻まれています。その中に「工事担任 水野丑松」の名が刻まれています。

 

水野丑松(1852-2914)は、菓子業水戸屋3代目当主です。群馬県玉村に生まれ、明治初年熊谷町石原の菓子業水戸屋に婿入りして跡を継ぎ、五家宝の祖高橋忠五郎(1809-1880)に風間浅五郎(1855-■)と共に修行しました。

 

明治16年に日本鉄道が熊谷まで鉄道を開通すると、熊谷駅前に茶店を出していた清水藤左衛門(1880-1952)、秋山国次郎に、水戸屋五家宝の駅売りを依頼し、五家宝が全国に名声を博するようになりました。明治43年には五家宝製造の特許権を取得し、熊谷銘菓の隆盛を築きました。また、五家宝の形を長方形にし「松風おこし」と称し販売しました。明治14年石原村村会議員に当選、また郡会議員となり郡村政にも尽くしています。

 

明治36年荒川護岸工事を請負い荒川大橋付近の塚を崩した際、冬眠中の蛇のかたまりを発見し二本松に移したところ、地主から苦情が出たため、丑松所有の土地に埋め、弁財様を祀りました。現在の市内美晴神社で、当時は「水戸屋の弁天様」と呼ばれていました。

 

なんと水の神様というよりもヘビ塚だったのですね。

 

水野丑松氏についての説明文でしたが、この2日間で歩いたことで土地勘が少し培われました。

 

群馬県玉村というのはあの利根大堰よりも20kmぐらい上流でしょうか、利根川本流に烏川が合流するあの川合のようです。

群馬県玉村から熊谷へ婿入り」の一文も、当時は橋がないのきっと舟で渡ってきたことでしょう。

それから16年後の明治16年(1883)には熊谷まで鉄道が延伸されたようですが、あの北熊谷の星溪園や星川のあたりはどんな変化があったのでしょうか。

水野丑松氏が「五家宝の製造特許」を得た明治43年(1910)は、下流の東京までの大洪水が起こり中条堤が見直されることになった年ですね。

利根川と荒川に挟まれた熊谷ですが、今の熊谷駅の周辺はどんな状況だったのでしょうか。

 

荒川の築堤記念碑に記録された一人の人生の行間から、次々とまた知りたいことが増えてしまいました。

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら