行間を読む 111 利根運河の歴史

利根運河の堤防を歩くと対岸に北側からの小さな川の流れがあり、それに沿って谷津のような地形と家や田畑が見えました。

運河によって、この辺りの水の流れや生活は大きく変化したのでしょうか。

 

以前利根運河の沿革を読んだ時には、1890年(明治23年)に完成したあとからの栄枯盛衰にまず気を取られていました。

わずか6年後には鉄道の開通により、舟運が衰退し始めたようです。

1896年(明治29年)12月25日に日本鉄道土浦線(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。1897年(明治30年)6月1日、銚子-東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年(明治43年)頃までのわずか20年程度であった。

 

地図を見ると、ちょうど利根川本流に鬼怒川が合流した場所の少し下流から運河が始まっています。

あの場所から開削して江戸川につながれば時間が短縮されると、当時は計画に大きな期待があったのではないかと想像できますね。

ところが同じ時期に鉄道も発達し舟運が衰退していく時代を、この地域の人たちはどのように受け止め、どのように生活を立て直していったのでしょうか。

 

*水運から水害対策へ*

 

初めて車窓から利根運河を見たときに、その高い堤防に驚いたのですが、Wikipediaの「現状」に書かれている、「過去の経緯から、現在の水量の割には土手が広大となっている」その経緯も書かれています。

1900年(明治33年)、国の河川政策が大きく変わる。今までは水運を優先して、水深を深くして川幅を狭くしていたが、水害対策を優先する方針に変わり、川幅を広げて堤防を高くした結果、水深が浅くなって汽船の運航が困難になった。また汽船乗り場が街から離れ、貨物の積み換えも不便になり、水運が衰退する要因となった。

 

1935年(昭和10年)9月26日に、台風前面の温暖前線による豪雨が襲い、大洪水となった。利根川側の水門は閉鎖されていたものの、江戸川からの逆流によって、利根川運河水堰の田中村・福田村両翼護岸が崩壊・越流破堤し、約200町歩の耕地へ氾濫・浸水した。

 

1939年4月、利根川増補計画が内務省により告示された。1935年の洪水の反省から、運河両岸の堤防を大幅に強化するとともに、利根川と江戸川の高水位の差(1935年の洪水時は2メートル)を利用し、高水時は本運河を利用して利根川の洪水のうち500㎥/sを江戸川へ放水することとした。

 

潮位を観測する技術とか排水させる技術もまた驚異的に変化した時代でした。

かつては洪水で袂を分かつような地域も、鉄道や自動車で行き来できるようになっていったのでした。

 

*「オランダ遺産 利根運河」*

 

利根運河駅構内に利根運河の案内所があり、パンフレットがありました。

その表紙に「オランダ遺産」と書かれているのは、ヨハネス・デ・レーケが調査をし、ローウェンホルスト・ムルデルが工事監督をしたからでしょうか。

 

 

この散歩のまとめを書いていたら、TBSの「世界遺産」でオランダの運河についての放送がありました。

オランダの風景では馴染み深い運河ですが、空からの映像をみると本当に網の目のように張り巡らされていて、その規模に驚きます。

そして何世紀のものか、古い地図に「dam」と書かれているのに目がいきました。日本のため池やダムとも違い、運河沿いの平地の堤防のように見えました。

 

デ・レーケやムルデルがイメージする「運河」とは、こうした平地に作られた縦横無尽に走る水路で、舟が行き交っているものだったのかもしれませんね。

まさか、日本に造った運河がその後、放水路として利用されるようになるとは考えていなかったのではないか、番組を見ながら利根運河を同時に思い浮かべていました。

 

 

 

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