散歩をする 404 中条堤を歩く

今回の散歩は熊谷で一泊しましたが、2日目の朝は4度でした。12月初旬は体がまだ寒さに慣れていないのか、最上階の客室では室温を上げなければちょっと寒く感じました。

 

テレビをつけるとNHK時論公論で、「なぜ賃金が上がらないのか」を放送していてついつい朝から集中して観てしまいました。「果敢に構造的な賃上げを決断する必要性」にそうそうと頷いていたら、「労働移動をしやすくする」という話になって、この30年ほど「仕事」がちょっと変な方向へ行ってしまったと社会の方が気づいてきているのに残念な話だなあと思いました。

 

6時になり遠く筑波山の方から白々と明けてきました。

赤城山や日光の山並みもだいぶ見えてきたら、一本の帯のように白い雲が西から東へ続いているのが見えました。

どうやら利根川の川霧のようです。

幻想的な風景に見とれてしまいました。現代の10階もある建物だからこそ見ることができる風景ですね。

その周囲にそれまで宝石のように輝いていた灯りの存在が薄くなると、広く利根川流域の平地が見えてきました。昔はここまで海だったのですね。

 

*中条堤を訪ねる*

 

8時にチェックアウトし、8時15分葛和田行きバスに乗りました。

通勤の車で渋滞気味の熊谷市内を走り、最初は他に通勤客が乗っていましたが水田地帯に入る頃には私一人になりました。

沿道には皇帝ダリアを植えている家があちこちにありました。うどん店も多いようです。

新屋敷(あらやしき)のあたりで左手に堤防らしい緑の土手が見えました。もしかすると、あれが目指す場所だろうかと思っているうちに、8時40分目的の照岩寺バス停に到着しました。住所は行田市北河原です。

 

実は出かける直前まで、どこに中条堤があるのか正確にわからないままでした。

検索すると先人の記録もあったのですが場所がはっきりとわからず、途方にくれて航空写真でそれらしい場所を探していたら、土手のような場所を見つけました。それがあの新屋敷のあたりから見えた土手です。

 

いちかばちかで下車して福川へ水路が合流する場所を目指すと、土手の端のような場所に何か説明版があります。

 

中条堤

 

 この堤防は、「中条堤(ちゅうじょうてい)」と呼ばれ中世から明治時代末まで埼玉平野を洪水から守る役割をしていました。

 利根川の上流で発生した洪水は江原(えはら)堤で一部が越流し、中条堤へ向かいます。洪水は、越流しながらも勢いを失うことなく左岸の「文禄(ぶんろく)堤」に沿いながら突き進み、狭窄部で行き場を阻まれます。行き場を失った洪水は、中条堤沿川に流れ出し、滞留を始めます。こうして大きな漏斗(じょうご)として遊水機能を発揮し下流の洪水が制限されるしくみになっていました。

 「中条堤」は、明治43年の洪水により4箇所にわたって破堤し、この修復をめぐって強化復旧を要求する下郷(しもさと)側と慣行的維持及び連続堤を要求する上郷(かみさと)側との間に争議が起こり埼玉県議会も大混乱となりました。この結果、利根川は堤防で洪水を防ぐ、連続堤防体系が確立されていきました。

 現在、洪水を防ぐ為にダムや調整地がつくられていますが、「中条堤」もこれらと同じ重要な治水施設でした。

 

Wikipedia中条堤明治43年の大水害の内容が簡潔にまとめられてある説明でした。

 

目の前に土手が南へと続いていますが、これが中条堤でした。

 

説明板には「中条堤とともに洪水を防いだ『控堤(ひかえてい)と領』」という地図が描かれていて、江戸時代の東京湾の近くまでの控堤と洪水の流れが示されていました。

「千住堤」「毛長堤」は現在の荒川区と足立区のあたりで、その間にもいくつか控堤が書かれています。

本当に「東京(江戸)を水害から守る治水システム」だったようです。

 

馬の背のようななだらかな土手の上を歩くと、両側の水田や集落がだいぶ低く見えました。

遠くには富士山も見えます。真っ青な空、土手の緑に水仙の白い花が映えて美しい風景が続きます。

 

 

数百メートルほど中条堤を歩き、一旦降りて、今度は行田市酒巻を目指します。

この中条堤付近は利根川の勾配が緩やかになる地点であり治水上重要な地点である。中条堤の下流行田市酒巻と千代田町瀬戸井間に人為的に狭窄部を設けるとともに、左岸の群馬県側には33キロメートルに亘って続く文禄堤(現在の利根川左岸堤防)が築かれ、中条堤、狭窄部、文禄堤が漏斗の型を構成し、利根川上流で発生した洪水を受け止める仕組みになっていた。

(Wikipeida「中条堤」「概要」)

 

昨日は中条堤の「人為的に設けられた狭窄部」を見るために、利根大堰の左岸側の瀬戸井まで歩き、対岸の酒巻にある水門を眺めました。

説明板の絵を見ると、昨日のあの堤防のあたりが中条堤の控堤の一つである「文禄堤」だったようです。

 

1990年代ごろ、公共事業を批判的に見るという世の中の雰囲気に影響されたのですが、実際に歩いてみて利根大堰というのは高度経済成長期の大型公共事業としてポンと計画ができたのではなく、こういう歴史のつながりがあった場所なのかと理解しました。

ほんとうにそれぞれの細かな歴史や生活を知ることは大切ですね。

 

 

今日は利根川の右岸側を歩きます。

 

 

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