利根川左岸の堤防を2kmほど歩いて堤防の下へと降り、そこから利根加用水沿いに千代田町役場まで歩いたのですが、途中、大きな川のそばではよく目にするはずの「想定浸水深」の表示がありません。
「〇〇川が氾濫すると、この辺りは△mまで浸水します」という標識です。
洪水浸水想定区域でも宅地化せざるおえない国土ですから、今までの散歩では川や湖のそばでは必ずありました。
利根川が氾濫したらさぞかしこのあたりでも水没するのではないかと思ったのですが、もしかするとあの中条堤が右岸側に造られたという歴史から地形的に水は右岸の熊谷など埼玉方面へと溢れて、左岸の群馬側は大きな被害を受けてこなかったのだろうかと考えながら歩いていました。
*利根加用水と元圦*
帰宅してから利根加用水について検索していたら、「気まぐれ旅写真館」というサイトに利根加用水についてまとめた記事を見つけました。利根大堰から取水している左岸側の邑楽(おうら)用水路については説明が見つかるのですが、利根加用水については詳細がわからないままでした。
2006年8月ごろの記事ですが、またまたすごい先人の記録に出会いました。
利根加用水の名称は、[利根川から補給する]に由来している。
もともとは、休泊川(利根川水系の一級河川)から取水していたが、水不足を解消するために江戸時代後期(天保10年頃)に、利根川からも水を補給するようになった用水である。取水地点は、現在の邑楽郡大泉町古海だった。
その後、利根川の河床低下や河道の経年変化等で自然取水が困難になったため、1997年には元圦の位置は従来地点よりも4km下流(利根大堰の湛水区域内)に移転され、揚水機場が併設された。揚水機場で取水した水は、利根川の左岸堤防に沿って流れ、流末は五箇川(谷田川の支流、一級河川)と邑楽用水路(利根川左岸の合口水路)へ送られる。
私が堤防を降りたところが千代田町瀬戸井の元圦(もといり)で、そこから北西へと利根川に逆らうような流れ方で水田地帯を潤している水路のようです。
知りたいことが書かれていてスッキリしました。
*「明治43年8月の大洪水に関する碑」*
「気まぐれ旅写真館」では利根加用水沿いに「水害記念碑」があることが書かれていました。
上五箇交差点付近、利根加用水の左岸に建てられている。
昭和10年(1935)12月建立。
碑の高さは約1.9m。
題字は農林大臣、山崎達之輔、撰文は富永村村長。
明治43年8月の大洪水に関する碑であり、碑文には利根川の左岸堤防が決壊した際の惨禍が克明に記されている。
背面には旧富永村の死亡・行方不明者42人の名前が刻まれている。
利根大堰の上の道を歩くことを断念して堤防の上へ集落を迂回したのですが、そこが上五箇(かみごか)地区でした。
石碑に気づかなかったのは痛恨のミスですが、利根川左岸にもやはり大きな洪水の歴史があったようです。
Wikipediaにも明治43年の大水害としてまとめがありました。
「関東だけで死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出約5000戸を数え、東京府だけでも約150万人が被災する大惨事」「関東一帯が泥沼化」と、現代からは想像もできない状況です。
その「背景」に中条堤の文字がありました。
現在の東京都区部の平地の部分は、元々海の干潟や低湿地帯だったものを、徳川家康入府後の埋め立てや治水事業によって可住地化したもので、東京(江戸)は本質的に水害に対して脆弱であり、また水害対策を目的のひとつとした利根川東遷事業によって利根川の下流域となった旧香取海周辺などのように、その代償として水害に襲われるようになってしまった地域もある。
それまでの治水は中条堤に見られるように氾濫を前提とし要所のみ守るという方式であり、寛保2年(1742年)の江戸洪水を始めとしてしばしば洪水に襲われてきたものの問題視されたことはなかった。しかし、明治維新以降、近代的なインフラ整備が進み、被害額が大きくなるにつれ水害に苦しめられていた地域に対し、さらなる負担を強い、このような氾濫を前提とした治水は理解を得ることが難しくなっていた。
(協調は引用者による)
「経緯」を読むと、「治水の要、中条堤が決壊」して右岸側も「氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになった」と書かれています。
「東京を水害から守る要」、その地形を江戸時代に見極めていたのですから本当にすごいとしか言いようがないですね。
出かける前にWikipediaの中条堤を読んだ時に「行田市酒巻と千代田町瀬戸井間に人為的に狭窄部を設ける」とあり、その場所を訪ねるつもりで計画を立てたのですが、期せずして中条堤を見直すきっかけになった水害の石碑にもたどりつきました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。