米のあれこれ 58 「那賀川北岸用水の歴史を考える」

大まかな計画で那賀川と取水堰を見ることができるだけでも十分ですが、国土交通省の那賀川の説明を読んでいたらその歴史が遺された場所を見逃すのはもったいなく感じました。

大井手堰から検索してみると、訪ねたい場所は「那賀川北岸用水」でその歴史が詳細に書かれている「那賀川北岸用水の歴史を考える」(エスシー企画、山本秀樹氏、技術士)という資料を見つけました。徳島県のURLではあるのですが何の資料かはよくわかりません。

 

添付されていた「現在の那賀川北岸用水と幹線水路及び佐藤良左衛門が開削した用水と昭和初期の取水堰の位置」という地図が、実際に歩くために役立ちました。

また参考資料編に3か所の石碑とその全文がふりがなと注釈を添えて記録されていたことも、とても参考になりました。

 

那賀川流域の歴史そして水田の歴史を知るために記録しておこうと思います。

 

1. はじめに

 徳島県飛鳥時代まで北部が「粟国(あわのくに)」、南部が「長国(ながの国)」と分かれていたが、大化の改新により「阿波国」として合併された。平安時代まで長国を治めていた豪族は長(なが)氏で、長国一の河川である那賀川も江戸時代まで「長川(ながかわ)」と呼ばれていた。下流域は洪水によって運ばれた土砂が堆積した三角州平野であるが、古代は中州が各地に発達し、那賀川の流れは網目模様に分派していた。洪水は自然氾濫状態だったため、人々は氾濫しても水に浸かりにくい中州の小高い場所に家を建て、周囲の湿地に稲を植えて暮らしはじめた。古い日本語では、水田化できない土地を「原」、水田化された土地を「野」と呼んだらしい。那賀川北岸の大京原、西原など「原」のつく地域はもともと稲作ができなかった土地なのである。

 その那賀川下流域において稲作農業が発達したのは、那賀川からの利水施設が整備されたからである。流域は日本有数の多雨地帯であるが、急峻な地形のため洪水の流出はシャープで、少し日照りが続くと渇水に見舞われる。山地崩壊もたびたび発生し、大量の土砂が流出する典型的な砂利河川でもある。このような管理の難しい河川を相手に、土木技術や建設機械が発達していない中世以降、那賀川北岸地域の農業利水施設がどのように整備されていったのか、その歴史と現状について考えてみたい。

2. 江戸時代の利水開発

 天正11年(1583年)、豊臣秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀家政が入国した。家政は慶長5年(1600年)に出家し「蓬庵(ほうあん)」と名乗ったため、それ以降は法名で呼ばれている。この頃から戦乱も次第に治まり、人口の増加とともに耕地も次第に拡大されていった。徳島藩吉野川流域では「藍」を、那賀川流域では「米」を作る政策をとった。未熟ながら用水路も原型が出来上がってきて、那賀川平野の米の生産量は阿波全体の三分の一を占めるまでになった。

 代表的な利水施設としては、延宝2年(1674年)、佐藤家によって建設された「大井手堰(おおいでぜき)」が挙げられる。この堰によってもたらされた水は、羽ノ浦(はのうら)、立江(たつえ)、坂野、今津(いまづ)、平島(ひらじま)の五ヶ村1,300町歩を潤す。佐藤家は先祖代々、用水運営に関わる豪農であり、江戸時代に蜂須賀家が阿波を治めるようになっても客分扱いを受け、名字帯刀・白足袋を許されていた。佐藤家の用水に関する文書資料は数多く残っているものの、残念なことに阿南市羽ノ浦町中庄(なかのしょう)の那東(なとう)地区にあった屋敷跡の場所は特定されてない。

3. 佐藤良左衛門の功績

 佐藤家には100年あまりを隔てて2人の良左衛門(りょうざえもん)がいたらしい。最初の一人は、延宝2年(1674年)に羽ノ浦町岩脇地先に大井手堰を築いた佐藤良左衛門である。当時の稲作は、那賀川の流れが蛇行して水当りとなっている場所から旧河道を通して引き込んだ水が使われていた。那賀川北岸側には、羽ノ浦町岩脇の大井手地点を取水口とする用水路があった。用水路は那賀川の旧河道(地元では内川とか那東川と呼んでいた)を利用したもので、取水口は洪水のたびに流失や決壊を繰り返していた。当時の取水口は、旧国道55号那賀川橋の上流約250m付近で、旧堤防が堤内側へU字に曲がっている箇所である。

 徳島藩は庄屋であった佐藤良左衛門にこの修築工事を任せた。しかし、当時は資機材や技術力も乏しく、何度やっても洪水で堰口が壊された。遂に、人柱をたてて水神の怒りを鎮めるしか方法が無くなった良左衛門は、誰を人柱にするかで苦悩する。それを見かねた良左衛門の娘お秀は、村の人々のためになるならば、と自ら人柱になることを申し出る。人々はお秀を止めるが決心は固く、その身を横たえた棺がいよいよ穴の中に埋められようとした時、藩主からの使者が駆けつけた。使者が持つ書状には、娘の代わりに埋めるように、との藩主の言葉とともに、仏像が添えられていた。そこで、僧侶や農民たちは祈りを込めて、1,080個の石に梵字を刻み、仏像とともに堰口に埋めたのである。取水口の真上には水神さんが建てられ、堰の守護神となった。これによって大井出堰は無事に完成し、その後の洪水でも流失しなかったと云われれる。

 昭和30年(1955年)、約3km上流の羽ノ浦町古毛(こもう)地点に、国営事業による「那賀川北岸用水」の取水口が完成し、大井手堰はその役割を終えた。さらに昭和40年代前半に直轄河川改修によって堤防が直線化され、取水口までの間は埋め立てられて公園になった。

旧堤防には「水神社」に隣接して「大井手堰趾」という巨大な石碑が建立されている。この石碑の文面は中西宇右衛門(中西長水)の書である。彼はかつての那賀川の名称「長川」の字を冠し、自らを「長水」と号するほど那賀川の研究者であり、大正10年に「那賀川沿革史」(稿本)を著述している。

4. 広瀬用水開削にまつわる悲話

 そして、もう一人の佐藤良左衛門が「広瀬用水」の建設にかかる悲話として、羽ノ浦町中庄(なかのしょう)で伝承される人物である。この良左衛門(二代目)はかつて大井手堰を築いた佐藤良左衛門(初代)の孫とも云われる。言い伝えによれば、良左衛門が外出していた折に隣家からの出火で自宅が火事となり、藩に上納するため預かっていた金を失ってしまった。良左衛門は責任をとって切腹しようとしたが隣人によって止められ、事情を知った地域の人々が金を集めて弁償してくれた。このような村人の行為に感激した良左衛門は、恩返しにと大井手堰からでは十分に水が届かない中庄地区の約150町歩に水を引こうと決意する。そこで、藩に対し、那賀川の上流の古毛小谷口(こたにぐち)地先に取水口を設け、古毛、明見(みょうけん)、岩脇地区を縦断する用水を新たに開削する計画を発願した。しかし、良田が潰れる上流の農民が反対して許可が下りなかったため、仕方なく郡奉行に願い出て黙許を得、安永1年(1772年)着工した。古毛、妙見と上流から下流へ用水を掘り進めたが、岩脇まで来ると百姓達が工事を中止させようと竹槍や鍬で襲撃するなど妨害してきた。困った良左衛門は郡奉行に事情を愁訴し、駕籠を借りて現場に置いてその中から指揮をとった。駕籠の前にはお膳を添えて奉行が召し上がっているかのように見せかけるなど、あたかも奉行が直接工事を指示していると思わせた。こうした苦難の末に、天明9年(1789年)9月、大井手分水からの鎌田口を廃止し、上流からの通水が始まった。そして寛政2年(1790年)8月、18年の歳月をかけ、ようやく長さ30丁(約3km)、幅2間(約3.6m)の広瀬用水が完成したのである。しかし、藩に無許可で工事したことをとがめられ、良左衛門は先遣5名とともに捕われ入牢となった。良左衛門は工事を黙認してくれた郡奉行に災いが及ぶのを恐れ、獄中で服毒自殺する。藩からはせっかく完成した用水を埋め戻すよう命が出されたが、これだけは村民必死の嘆願により残されることになった。その代わり、用水路を利用する中庄方面の人々は、補償米を毎年支払うこととされ、それは明治9年(1876年)の地租改正まで約100年間続いたのであった。

 このようにして良左衛門(二代目)が心血を注ぎ命を賭けて完成させた広瀬用水も、洪水のたびに堰は破壊され、遂に天保6年(1835年)の洪水では川の流れそのものが変わって、破壊された堰を元通り修復することが不可能になった。そのため、翌年に上流の阿南市楠根町歯仏(はぼとけ)に堰を設け、古毛・明見地区のかんがい用水を確保することになった。これが「上広瀬堰」の始まりである。同時に中庄方面のかんがい用のために「下広瀬堰」が造られた。ちなみに、「広瀬」という名称は北岸側の地名ではなく、南岸側の上大野町にあった広瀬という旧家(持井橋の上流に現存する)の名称で、堰との位置関係で呼んでいたのが、いつしか用水施設の名称になったらしい。

 以来、下広瀬用水は潤沢な用水の恩恵にあずかりつつも、良左衛門の事跡は長らく埋もれたままとなっていた。昭和14年那賀川が大渇水となり、大井手堰、上広瀬堰が取水困難となった際、下広瀬用水だけは難を免れたため、今更ながら良左衛門の遺徳が偲ばれた。そこで、関係地区農民や地主等の拠出により、佐藤家の屋敷があったとされる那東地区の道路沿いに頌徳碑が建立されたのである。碑文は当時の荒木徳島県知事の揮毫であり、建立式典には徳島に在住していた佐藤家の子孫もお招きし、盛大に祝ったとされる。

5. 水争い

 時代は変わっても、洪水や渇水は相も変わらず続く。那賀川流域は全国有数の多雨地帯であるが、地形が急峻で地質が脆弱なため、たびたび大規模な山崩れが発生した。下流では洪水で運ばれた大量の土砂によって常に流路が変わり、那賀川からの取水は不安定な状況が続いていた。加えて、上流域の林業は藩の重要な産業であり、盛んに筏流しが行われたため、取水堰の構造を巡り様々なトラブルも発生した。

 一方、那賀川南岸では「一の堰」、「竹原堰」に加え、明治以降になって「乙堰」、「大西堰」が造られるなど、かんがい面積は次第に増加していった。それに伴い取水量も増加したため、渇水時には水不足となり水争いが頻発するようになった。なかでも明治27年(1894年)の大渇水では、北岸の大井手堰と南岸の竹原堰の間で深刻な水争いとなった。7月19日、大井手堰の関係農民千人余りが、舟路の浚渫との名目で鍬を持って集まり、竹原堰を縦断して長さ400間(720m)、幅5間(9m)、深さ3尺(0.9m)にわたり砂州を掘って水を引いた。これを知った南岸側の農民がすぐさまこれを埋めにかかり、遂に両岸入り乱れての投石合戦になった。警察が抜刀してこれを制止したにもかかわらず乱闘は3日間続き、ようやく翌日の降雨で争いは治った、との記録がある。

6. 北岸用水の完成

 那賀川の河川改修によって、現在の連続堤防が建設されることになった際、いくつもあった取水堰が障害となり、治水と利水は一体的であるべき、との考えが論じられるようになってきた。政府も、那賀川の抜本的な改修を認め、昭和7年(1932年)に河川改修が始まった。この動きと平行して、農林部門においても南岸や北岸における堰の統廃合を図ろうとする動きが出てきた。

 昭和23年(1948年)、農林省(当時)は北岸側において「上広瀬堰」、「下広瀬堰」、「大井手堰」の取水施設を統合する「那賀川北岸用水国営かんがい排水事業」に着手した。取水堰の位置は阿南市羽ノ浦町古毛小谷口地先で、前述の下広瀬堰付近にコンクリートの固定堰を建設した。

幹線水路延長は3,198m、幅は10.0m~6.0m、かんがい面積は2520haで、昭和30年に完成した。新たに開削した幹線水路は二代目良左衛門が開削した広瀬用水を拡幅し、桜の名所である岩渕公園の約500m下流地点で分岐し、羽ノ浦町岩脇姥ケ原(うばがはら)において初代良左衛門が築造工事を行なった大井手堰の用水へと接続された。ここに100年余りを経てた二人の良左衛門の功績が、一本の幹線水路として繋がったのである。こうして、那賀川平野は近代農業への道を歩み始め、今では徳島県を代表する早場米の穀倉地帯となっている。その北岸用水の取水口脇には「国営北岸用水碑」が建立され、裏面には国営北岸とち改良事業の縁起が刻まれている。

 そして、この事業には後日談がある。国営事業に伴い岩脇付近で幹線水路から分岐することになった下広瀬用水(良左衛門用水)は、県営事業により他地区への用水とともに一本の水路に統合され、良左衛門用水は廃川とされたのである。その結果、中庄地区への水量は大幅に減少して再び水不足が常態化し、二代目佐藤良左衛門に申し開きができない状況となった。県にも交渉したが改良済みということで応じてもらえなかったようだ。こうなると良左衛門用水を復活させるしか方法がなくなり、羽ノ浦町(当時)が実施するほ場整備事業と関連させたり、団体事業の採択など苦肉の策により、12年の年月をかけて良左衛門用水を改修し、ようやく水量が復活したのである。現地に行くと幹線水路から分岐した二本の用水路がほぼ並行するように走っているのがわかる。南側の用水路は県営事業で統合された下広瀬用水であり、途中に岩脇地区へ分岐する「刻堰(ときぜき)」と用水ポンプ設備がある。そして北側の用水路が復活した良左衛門用水である。二つの用水は約1.1km先で再び合流し、中庄地区へと分流していく。現在、この用水は「五カ村用水」と呼ばれ、恩恵を受けている高田(こうだ)、野神(のがみ)、浦川、那東、塚原の5地区が維持管理している。

6. おわりに

 那賀川北岸用水をめぐり、後世に伝承されてきた佐藤家は、代々「用水づくり」に尽力し、地域農民から大変感謝されてきた。私の家は代々農家であり、二代目佐藤良左衛門が開墾した広瀬用水の受益者でもあるため、次第に風化しつつある北岸用水の歴史をとても気がかりに感じている。

 現在、那賀川では南岸用水と北岸用水を統合するとともに、用水・排水を分離することによって水質保全を図る「国営総合農地防災事業」が進められている。この事業については、事業費が当初計画から大幅に増大したため、工事を一時中止し、計画の見直しが行われた。結局、計画は大幅に縮小されて工事再開となったが、農業関係者が待ち望んでいたパイプライン化は、むなしい夢で終わってしまった。やむを得ない事情があったとはいえ、毎年のように発生する渇水や気候変動等の影響等を考慮すると、この段階での大幅な後退は誠に残念でならない。とはいえ、まずは一日も早い事業完成を願うしか方法はないようである。我々地域住民は、農業の礎である「水土」を創造した先人の功績に対し、いつまでも感謝の気持ちを忘れてはならないと考える。

 

 

訪ねる前にこの資料と地図を眺めたのですが、やはり全く知らない土地なのでなかなか頭に入らないまま出かけました。

 

4月初旬の羽ノ浦周辺は、滔々と流れる水路とその先の水鏡になった田んぼの美しい風景でした。

「人柱」「責任を感じて獄中で服薬自殺」「100年間も補償米を支払った」「水争い」といった過酷な歴史があったとは信じられないほどの整然とした水田地帯です。

帰宅してからこの資料を読み直すと、だいぶ実際の風景や地名がつながりました。

 

あちこちでこうした「水土」の歴史を残そうとする方々の存在もまた、水田が健在な理由のひとつかもしれませんね。

そうした記録のおかげで、現代の大きな治水利水事業は長い歴史の延長にあることも少しずつ理解できるようになってきました。

 

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら