水のあれこれ 297 那賀川北岸用水沿いに羽ノ浦古毛まで歩く

13時ちょうど、JR牟岐(むぎ)線羽ノ浦駅に到着しました。

 

「那賀川北岸用水の歴史を考える」という資料に添付されていた地図で大まかな場所を頭に入れて、まずは駅の東側にある二代目の佐藤良左衛門の碑を目指しました。

このあたりの中庄(なかのしょう)は「往昔水利乏しく米作尤(もっと)も不便なりき」という地域で、明和9年に廣瀬用水路延長を開墾したことにより「爾来(じらい)茲(ここ)に百六十餘年百五十町歩に及び嘗(かつ)て旱害(かんがい)を知らず餘澤(よたく)今日に至る」という内容が書かれていることがその資料にありました。

 

ところが微妙にGPSが地図とずれていることと、駅から南東に少し歩いた「なかれ」という地名のあたりの水路が複雑すぎて道に迷いそうになり、15時には取水堰近くから阿南駅行きのバスに乗らなければいけないのでこの碑は諦めて先を急ぎました。

 

県道274号線沿いにしばらく那賀川の方へと歩くと、少し離れたところに水路が見えてそばに標識がありました。

川が貴方を写しだす 澄んだ川が貴方自身

 水土里ネット那賀川北岸(那賀川北岸土地改良区)

目指していた那賀川北岸用水の水路でした。

 

その水路の上にはさらに西側から二列の水路が架けられていたり、縦横無尽に水田地帯にあちこちに水路があります。

 

 

*北岸用水完成後に復活した良左衛門用水*

 

しばらくその水路沿いに歩くと分水路がありました。羽ノ浦町古庄地区に入ると水路は大きな2本が近づきながら流れ、姥ケ原のあたりを大きく蛇行して取水堰の方へとつながっていて、その北側の1本が先ほどの分水路からさらにその先を潤しているようです。

 

なぜこんな近くに大きな水路が平行して造られているのだろうと思いましたが、帰宅して改めて資料を読むとこんなことが書かれていました。

 そして、この事業には後日談がある。国営事業に伴い岩脇付近で幹線水路から分岐することになった下広瀬用水(良左衛門用水)は、県営事業により他地区への用水とともに一本の水路に統合され、良左衛門用水は廃川とされたのである。その結果、中庄地区への水量は大幅に減少して再び水不足が常態化し、二代目佐藤良左衛門に申し開きができない状況になった。県にも交渉したが改良済みということで応じてもらえなかったようだ。こうなると良左衛門用水を復活させるしか方法がなくなり、羽ノ浦町(当時)が実施するほ場整備事業と関連させたり、団体営事業の採択など苦肉の策により、12年の年月をかけて良左衛門用水を改修し、ようやく水量が復活したのである。現地に行くと幹線水路から分岐した二本の用水路がほぼ平行するように走っているのがわかる。

(「6. 北岸用水の完成」より)

 

一本の水路にも本当に深い歴史がありますね。

北岸用水が完成したのが1955年(昭和30)ですから、それから12年というと私が幼児の頃にこうした苦労があったようです。

 

帰宅してから冒頭の資料と地図を突き合わせてみるとこの時に歩いた駅の南東が中庄で、そこへ二代目良左衛門が作った五ヶ村用水は、もう少し北側を流れていることがようやくつながりました。

一見どこも平地に見えるのですが、水不足と旱害のおこりやすい地域に用水路を造ってその両方の解決を図るとは、江戸時代にどのような技術でそれを可能にしたのでしょう。

 

 

那賀川の堤防沿いに歩く*

 

姥ケ原から西側は水路沿いに道がなさそうなので、ここからは那賀川の堤防を歩くことにしました。

古庄の住宅地のはずれの小高いところに石碑が見えました。

Macのマップには「若鮎公園」と表示されているだけですが、ここに水神社と大井手石碑がありました。かつての大井手用水の取水口があった場所のようです。

 

堤防の上に出ると、西側に山が連なっていてその間から流れ出てきた那賀川がゆったりと流れていました。4月初旬だというのに初夏のような日差しに、川が輝いています。

最初の計画で訪ねる予定だった水神社の鎮守の森が対岸に見えましたが、このままこの北岸用水沿いを歩くことにしました。

 

堤防の上に消防団の建物があり、「津波注意 海岸から5.0km ここの地盤は海抜12.3m」と表示がありました。

しばらく歩くとまた地図にはない水神社が那賀川に向かって堤防の上にあります。どんな思いでいつ頃建てられたのでしょうか。

 

その先では新しい橋が建設中で通行止めのようです。いったん堤防を降りて水田と集落の間を歩いて、桜つつみ公園へ向かいました。桜は終わりの季節でしたが、平日だというのに結構遊びにきている人がいます。

那賀川のすぐそばに造られ公園の真ん中には池もあり、よく手入れもされた公園でした。

ここもまたかつての取水口があったのでしょうか。

かつては岩脇公園と呼ばれていたようで、昭和3年昭和天皇即位記念に遊園地として造られたことが書かれていました。

 

那賀川北岸用水沿いに羽ノ浦古毛地区へ*

 

山沿いを通っている県道276号線に出て、ここからは県道沿いに幹線水路沿いに取水堰まで歩く計画です。

 

水路と歩道の間には柵があるのですが、それでも足がすくみそうな水量が流れていて人喰い川という言葉を思い出しながら歩きました。

那賀川沿いの広大な水田地帯を眺めながら歩いていると、バス停のある古毛(こもう)農村公園まできました。

道路沿いの家のすぐ裏手は山が迫っているような場所です。

 

この先の山の端の近くに取水堰があるのですが、そこまで歩くとバスに間に合わなくなりそうなので、残念ながらあきらめました。

 

桜がまだ残っている木の下で休みながらバスを待ちました。あちこちから水音が聞こえてきます。本当に美しい地域です。

「農村総合整備モデル事業 古毛農村公園」と標識がありました。検索すると1972年(昭和47)に始まった事業のようです。

農村整備事業は、昭和30年代後半からの高度経済成長に伴う社会構造の変化と、社会資本の年農村間格差の顕在化を背景として、昭和40年代から制度創設の検討が始められた。

(「農村整備について」、平成15年6月9日、農林水産省農村振興局)

 

ふとバス停を見ると、停留所名は「古毛児童公園」でした。「農村公園」から「児童公園」になったのでしょうか。半世紀ほどの社会の変化を感じました。

 

今回も地図を眺めてできあがった計画でしたが、貴重な資料のおかげで江戸時代からのこの地域の歴史を知りながら水路を見ることができました。

 

 

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