散歩をする 405 利根川右岸の堤防沿いに利根大堰まで歩く

現代の「堤防」とは外見が少し違い、中条堤は緩やかにカーブした土塁という感じです。

 

数年前から都内を始めあちこちの河川の堤防を歩くようになりましたが、最初の頃は「川というのは、当たり前ですが1本の川に両岸があるわけですから、10kmの川であれば20kmの堤防が必要ということですね」程度の堤防へのイメージでした。

現代であれば、水辺の地域を洪水から守るのが堤防ですからね。

 

ところが水攻めの堤防の技術が干拓に生かされたとか、ところどころ不連続に切れて、洪水が逆流して滞留するような堤防など、堤防の歴史ひとつとっても奥が深いものだと思いながら中条堤を下りました。現在は中条堤のどちら側にも水田があり、反対側へも行けるように堤を上り下りできる農道が整備されていました。

 

北河原の静かな家並みを歩くと、先ほどバスで通ってきた県道83号線に出て目の前が水田地帯になりました。そこから東へと県道59号線が酒巻の方へと続いています。この道をしばらく水田を眺めながら歩く予定です。

けっこう交通量があり白線だけの歩道だったらどうしようかと思いましたが、水田地帯なので農耕車専用道をゆったり歩くことができました。

 

左手に堤防の土手が近づいてきました。

昨日左岸がわから見えた水門に流れる福川の堤防です。その堤防のすぐそばに長細く集落が続いていて、右手は広大な水田地帯です。

畦道にはホトケノザが咲いていました。日当たりが良いからでしょうか、12月初旬だというのにまるで春が来そうな道端の風景です。

 

*酒巻導水路の取水口*

 

行田市立北河原小学校の交差点を福川の方へ曲がりました。

地図では酒巻導水路の取水口がその土手のあたりにあるようなので、そこを見てみたかったのでした。

草むらの中、柵に囲まれた取水口のあたりが見えました。

 

Wikipediaには酒巻導水路の説明がないのですが、あの「気まぐれ旅写真館」に詳細が書かれていました。昭和7年(1932年)に作られた農業用水路だそうです。

酒巻導水路の路線は、星川の故道(おそらく古代・中世の旧河道)に相当する。

これはかつての利根川の主流であり、長禄年間(1460年頃)に太田道灌江戸城を築いた時、この流路を使って築城材料を搬送したとの記録も残っている。

酒巻導水路の両岸は微高地となっているが、これは往古の利根川が氾濫したさいに土砂の堆積によって形成された自然堤防であろう。微高地上には約20基からなる酒巻古墳群、約10基からなる斎条古墳群があったが、数基の遺構を残して、現在はほとんどが消滅している。

なお、酒巻導水路には開削当初に建設された、橋梁や堰などの古い土木構造物が数多く残っていて、それらのほとんどが、今なお、現役の施設である。

 

地図で見つけた導水路ですが、先人の記録のおかげで地形から歴史まで知ることができました。

 

利根川右岸の堤防の上を歩く*

 

福川樋門を過ぎたあたりに地図では溜池が描かれていますが、「さすなべ排水機場」で県営かんがい事業の説明がありました。

 

その先から土手は利根川右岸の土手になります。ここから土手の上へと上りました。

この日もお天気に恵まれて、真っ青な空に利根川の水面が美しい風景です。日光の方は雪雲に覆われていました。

対岸に昨日歩いた瀬戸井の利根加用水の取水塔が見えます。

 

まだ8000歩ほどですが、今日はちょっと足が痛いのでひと休みです。ベンチがないので土手に腰掛けようとしたら、なんとタチツボスミレが一輪咲いていました。

こういう何気ない日常のひとつひとつが奇跡ですね。

 

静かな利根川を眺めたあと、左手に利根川の堤防を眺めながらまた県道59号線沿いに利根大堰へと歩きました。

2018年に訪ねた時には、三方へと分水されるまでの囂々と流れている取水口に圧倒されました。

 

利根大堰のそばに石碑が建っていた記憶があり、今回はそれをもう一度読んでみたいと思い近づきました。

甦った見沼代用水

 

 見沼代用水は、享保十二年、浦和市と大宮市の東部にあった見沼を徳川幕府が開拓したため、見沼に代わる用水として、利根川から取水するために開削した歴史的な用水であります。

 かんがいの範囲は埼玉県の北埼玉、南埼玉、北足立の三郡、二十七町村から、東京都足立区にわたる水田一万五千余haという広汎な地域に及び、関東平野最大の規模を誇っております。

 その重要性から埼玉県、関係市町村及び見沼土地改良区は、古くから水路の維持管理や改良工事を積極的に行ってきましたが、近年施設の老朽化や水路底の洗掘などにより、水路の通水機能は著しく低下しました。

 また、水田の宅地化など土地利用形態が変化したことにより、この地域の農業用水の需要が減少する一方、埼玉県や東京都の水道用水需要が増大したため、農業用水の一部を水道用水に転用し、水資源の有効利用を図ることが求められました。

 こうした背景のもとに、見沼代用水路を近代的な多目的用水路に改修し、農業用水の安定供給と水道用水を新たに供給することを目的とした「埼玉合口二期事業」が計画され昭和五十三年から十七年間におよぶ工事期間を経てこのたび完成したものであります。

 本事業の完成にあたり、見沼土地改良区・水資源開発公団ならびに関係する皆様方のご協力に対し深甚なる敬意を表するとともに、この施設が郷土の繁栄に貢献することを念願するものであります。

 

平成六年吉日 埼玉県知事 土屋義彦

 

近くに「見沼代大用水元圦の沿革」という説明もありました。

 見沼代用水は享保十二年(一七二七)八代将軍徳川吉宗公の新田開発計画に基づいて、幕府勘定奉行吟味役井沢弥惣兵衛為永によって開発され、現在の行田市から東京都に至る二七市区町村の水田約15,000haをかんがいしている。

開発当時の元圦(用水取水口)は木造であり、以来元圦及び増圦の二口で取水していたが、明治三十九年(一九〇六)一口のレンガ造に改造し、昭和十三年、三十四年に一部改造したが、同四十三年(一九六八)利根大堰からの取水開始に伴って、元圦は廃止するに至った。

 当改良区は見沼代用水元圦公園を設け、碑を建てて史跡を後世に伝える。

 

昭和五十二年三月  見沼土地改良区

 

草むらに碑が建っていたこの辺りが、もともとの取水口だったようです。

前回来た時にはこの説明板も目に入っていなかったか記憶にないのですが、歴史を知るとともに少しずつ見えるものが変わってきました。

 

そばに小さな慰霊碑が建っていました。

 

 

 

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