水のあれこれ 318 十六間堰と八間堰

見沼代用水沿いに2~3kmほど歩いただけでもうバスに乗って帰ろうと思う暑さでしたが、冷房と本多静六氏の展示のおかげでなんだかもっと歩こうという元気が出ました。

 

支庁の先に地図では見沼代用水の水色の部分が広がった箇所があります。分水路とも違うのか気になったので、やはりそこを見てみようと歩き始めました。

 

貯水池のように広がった場所に大きな水門があり、コンクリートの柱に「十六間堰」「制水門扉 調節門扉」と標識がはめ込まれていました。いろいろな水利施設がありますね。

分水路のような流れを渡ると、池のような場所を見下ろすように小さな公園に「見沼代用水」と彫られた大きな石碑がありました。

 

碑文

 

 「令和元年(二〇一九年)九月四日、見沼代用水は世界かんがい施設遺産に登録された。

 十八世紀初頭、八代将軍徳川吉宗の命を受けた伊澤弥惣兵衛為永は、広大な見沼溜井を干拓することにより新田とし、見沼に代わる安定した水源を六十キロメートル離れた利根川に求め用水路を開削した。併せて用水沿線地域に支線を分流し諸沼の新田開発を推進した。

 この国家プロジェクトにより、享保十三年(一七二八年)一万5千ヘクタールという広大な水田に利根川の安定した水を供給する日本最大の農業用水、「見沼代用水」が誕生したのである。

 その建設には、当時最先端であった「紀州流」の技術が結集された。

 緻密な現地調査に基づく自然の地形を生かした路線選定。水盛器を用いた先進的な水準測量。当時わが国最大規模の木造水利構造物であった「元圦」(利根川からの取水口)、「八間・十六間堰」(星川との分流施設)、「柴山伏越」(元荒川を横断する逆サイホン)、「瓦葺掛渡井」(綾瀬川を横断する水路橋)の建設。そして、この大工事を六箇月という短期間で完成させた建設手法。

 さらには、舟運による江戸と用水沿線地域の広域物流システムを築くため、高低差が三メートルある用水路と排水河川の芝川を繋ぐ閘門式運河「通船堀」を建設したのである。

 世界かんがい施設遺産の登録は、このような革新的な構想と当時の卓越した土木技術、食料増産や幕府の財政再建への貢献など、見沼代用水の歴史的、技術的、社会的価値と、その役割が今日まで引き継がれていることが高く評価されたものである。

 見沼代用水の管理は、江戸幕府等の官営時代、その後の水利土功会、普通水利組合等を経て現在の土地改良区へと変遷してきた。

 この間二九〇余年、絶やすことなく連綿と「命の水」農業用水を流し、地域の発展に尽くしてこられた先人の方々への感謝と、ご協力をいただいている土地改良区の役員、総代並びに組合員の皆様に敬意を表し、ここに登録の栄誉を祝し星川弁天敷地内に記念碑を建設するものである。

 令和二年八月吉日 見沼代用水土地改良区

理事長正能輝夫 撰文

 

ここもまた見沼代代用水の歴史では大事な場所だったようです。

 

見沼代用水土地改良区のサイトに、「十六間堰(じゅうろくけんぜき)・八間堰(はちけんぜき)」の説明がありました。

星川から久喜市(旧菖蒲町)で分かれ、見沼代用水の入り口に八間堰、星川に十六間堰が作られ、用排水の調節を行っています。

用水が必要な時には十六間堰を閉じて八間堰を開き、用水のいらない時は反対に八間堰を開き星川に水を流しています。

堰の横の長さがそれぞれ八間(約14.5m)、十六間(約29m)であったためこの名前が付けられています。

 

見沼代用水から東へと分水される部分が広く描かれているのも、本流よりも2倍の広さだったからのようです。

 

なんとなく地図で気になった場所を訪ねることでこの碑文に書かれている場所にたどり着き、次第に見沼代用水の流れを頭に描けるようになってきました。

 

見沼代用水の重要な場所に予期せず立ち寄ることができて満足し、また水路ぞいに歩きました。

 

桶川駅までのバス停がある橋の近くに着くと、見沼代用水の表示が「一級河川星川」になっていることに気づきました。

地図ではここから行田のあたりまで、見沼代用水に沿って「旧河道」のような箇所がいくつかあります。

なぜなのだろうと思っていたのですが、この星川の一区間が見沼代用水として使われているようです。

 

この先をもう少し歩いてみたかったのですが、今回はここまでにして桶川駅へと向かいました。

 

 

 

 

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