記録のあれこれ 160 久喜市の「本多静六記念館」

見沼代用水と河川の立体交差の場所を過ぎると、国道468号線が高架橋になって見沼代用水と水田地帯の上を走っていました。

江戸時代に水路を掘った人たちが想像もできないような未来ですね。

 

高架橋の先からは左手の少し高い場所を流れる見沼代用水と、右手はただただ見渡す限りの水田地帯に入りました。

ところどころ「三ヶ日圦」といった見沼代用水からの分水口がありました。

 

こちらの記事に「元圦」という言葉を初めて知ったと書きましたが、その一年ほど前の小貝川の福岡堰を訪ねた時にも目にしていたようです。さらに記事を読み直して確認してみると最初に利根大堰を訪ねた時に石碑の中でその言葉に出会っていました。いずれにしても私の生活の中では見かけない言葉でした。

 

「漢字ぺディア」によると圦というのは「堤に埋めて、用水・下水の流れを調節する樋(とい)。水門」とあり、例として「圦の口を開ける」とあります。

きっと祖父も倉敷の東西用水の分水路の「圦の口」を開け閉めしていたことでしょう。

 

圦をつくる技術やその管理はどんな仕事なのか話を聞いてみたかった、そんなことを考えながら見沼代用水の水面と田植え直後の美しい水田地帯を眺めながら水路に沿って歩きました。

 

利根大堰まで22キロ」の表示のあたりから、見沼代用水は弧を描くように北東へと曲がり、その先に大きな建物が見えてきました。地図では久喜市菖蒲総合支所のようです。

暑さで少し冷房が効いたところに避難したくなりましたが、この日は日曜日ですから支所も閉まっていることでしょう。バス停で時間を潰そうかと思って近づくと、建物の窓に「本多静六記念館」と張り紙が見えました。

野辺地の鉄道防雪林で知った本多静六氏です。なんという偶然でしょう。そして日曜日も開館中とあります。

 

支所は日曜日だというのにたくさんの人が訪ねています。目の前にある菖蒲城址あやめ園のラベンダー祭りで、出店も出て賑わっていました。

 

 

*公園の一世紀*

 

展示には野辺地駅と防雪林の模型があり、懐かしく眺めました。1993年(平成5)に久喜市(旧菖蒲町)と野辺地町の交流が始まったそうです。

 

一枚のパネルの前でしばらく立ち止まりました。

日本林学の基礎を築く

明治25年(1892)7月に東京帝国大学農科大学の助教授に就任した本多静六は、昭和2年(1927)に退官するまでの35年間教壇に立ち、その間多くの後進の指導にあたりました。学問的には造林学の体系化に努め、その普及と民衆化に力を注ぎました。

一方で、東京市はじめ各都市の水道水源林の整備、鉄道防雪林の創設、都市公園・森林公園の設計改良、各地社寺林の増設・整備、国立公園設置運動等に努めました。

(強調は引用者による)

 

私が幼児だった1960年代中頃にちょうどその頃建ち始めた始めた最先端の官舎に小さな公園があったので、現代の感覚の「公園」を体験しました。

ところが同じ頃に転居した地域は国立公園内でした。官舎内にはやはり小さな公園がありましたが他の住宅地には公園というものはほとんど見かけませんでした。

「公園」が指すことが全く違うことに疑問も感じていなかったのですが、十数年ほどで都内に戻るとあちこちに都市型の公園が造られ始めていました。

 

展示の中に、本多静六氏も参画した明治神宮の森の写真がありました。セピア色の写真ではまだ大鳥居と同じくらいの高さの木が見えるくらいで、現在の鬱蒼とした森とはまったく違う景色です。

 

これもまた本多静六氏にとっては「公園」の一つだったのですね。

一世紀前の人にとって公園とは何だろう。

しばし立ち止まって考えたのでした。

 

 

そして明治神宮外苑の樹木伐採がニュースになるこの頃ですが、この「公園」の歴史を考えると何がより良い答えなのだろう。

一世紀後の風景が想像できるかどうかのためには、一世紀前のこの「公園」という概念がどう造られてきたかあたりに何かヒントがあるのだろうか。

そんなことを考えながら記念館を後にしました。

 

それにしても本多静六氏が、見沼代用水から広がる水田地帯で生まれ育っていたとは。

現代の「公園」へとどのようにつながっていったのでしょうか。

 

 

 

 

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