記録のあれこれ 159 常福寺と井澤弥惣兵衛の墓

柴山伏越の説明版に、「柴山伏越と常福寺」の説明がありました。

水門のそばにお寺があり、そこにも説明板があります。

 

見沼代用水路開削者

伊澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)の墓

 見沼代用水路普請奉行

 幕府勘定吟味役 紀州流土木技術者

 

 紀州溝口(みぞのぐち)(和歌山県海南市)に生まれました。はじめ紀州徳川家に使えましたが、藩主吉宗が八代将軍となった時、招かれて旗本となる。全国各地の河川改修や新田開発に著しい活躍をし、勘定吟味役に昇進しました。

 為永の行った最大かつ代表的な紀州流土木事業が、見沼の開発であり、享保一二〜十三年(西暦一七二七年〜八年)奉行として自ら測量設計監督にあたり見沼の干拓、代用水路の開削、沿線の新田開発を行った。重要な施設の中でも、この地の柴山伏越は用水と河川の立体交差で、瓦葺掛渡井(現在伏越)と共に為永のすぐれた技術を知ることができます。

 元文三年(西暦一七三八年)3月一日逝去、享年七十六歳江戸麹町(東京都千代田区)心法寺に葬られました。

 法名 崇岳院殿隆誉賢厳英翁居士(すうがくいんでんりゅうよけんげんえいおうこじ)

 明和四年(西暦一七六七年)水路沿村民は為永の遺徳をしのび、ここ常福寺に分骨して墓石を立てました。

   平成十一年    見沼土地改良区

 

 

*見沼溜井から見沼代用水へ*

 

柴山伏越を検索したところ、「浮間わいわいねっと」に「見沼代用水路 案内」に柴山伏越と伊澤弥惣兵衛について説明がありました。

 見沼代用水路は、享保十二年(1727)徳川吉宗勘定吟味役格井沢弥惣兵衛に命じ、県南東部(大宮大地の東南端)にあった見沼溜井を干拓させた時、代わりに水源を利根川に求めて掘った水路であり、もとの見沼に代わる用水路と言うことで見沼代用水路と命名された。水路延長は60キロメートルで、受益面積17,000ヘクタールにも及ぶ大用水路である。

 伊沢弥惣兵衛は紀州の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約六ヶ月で完工している。当初の設計にはほとんど狂いがなかったといわれたほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。

 同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。

(強調は引用者による)

 

 

1629年に伊奈忠治によって見沼溜井がつくられ、一世紀後に伊澤弥惣兵衛によって利根川から見沼代用水が引かれた歴史が、ようやく繋がりました。

 

何度も読んだWikipediaでしたが、こうした現地に残る記録と合わせて読むことで初めて全体像がつながるのはなぜでしょう。

「百聞は一見にしかず」というのはこういうことかと、ようやくわかるようになってきました。

 

そして今まではあまり気に留めていなかったこうした説明板が、いかに重要であるか。

写真を撮っては、後でゆっくりと読み直しています。

 

 

 

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