水の神様を訪ねる 87 糠田地区の氷川神社

川幅日本一の場所から荒川左岸の大宮台地の縁へと上がり、住宅地の間を歩きました。ここ40年ぐらいでできた住宅地のように見えます。

田野宮小学校前の交差点で左へ曲がり、荒川の堤防の上を歩きました。

 

荒川側は相変わらずだだっ広い河川敷で、反対側は堤防内の低い場所に水田が見えて水門がありました。

ここから2kmぐらい北北西のところで武蔵水路と交差している川で、そばに説明板がありました。

洪水から地域を守る! 県営湛水防除事業

 

この事業は土地改良法に基づいて農林水産省の補助により施行されています。

○地区名 足立北部地区

○事業主体 埼玉県大宮土地改良事務所

○事業目的 農地及び市街地の湛水被害を解消する

○事業の概要 流域面積 971ha

       排水機場 立軸斜流ポンプ φ1,650mm2台

            立軸斜流ポンプ φ1,000mm1台

            排水量     (*)=14.3㎥/s

       排水樋管 高さ2.6m×幅3.0m×2連

       排水路 L=5,130m

((*)は検索してもわからない記号でした)

 

右手の低い水田地帯は水に浸かりやすい場所のようです。

 

まったく荒川の水面が見えない堤防の上をしばらく歩くと、堤防からわかれて少し下り坂の道があり糠田地区へと入ってその先に鬱蒼とした鎮守の森が見えました。

 

 

*糠田(ぬかた)地区の氷川神社

 

 

参道の左手はすぐ、荒川の土手が近づいています。堤防のすぐ下にある境内は広く、きれいに掃き清められていました。

古い木の立派なお社です。

 

 

氷川神社 御由緒

 

 鎮座地の糠田は、荒川左岸の低地に位置し、その地内には、かつて「糠田の渡し」と呼ばれる荒川の渡し場があった。対岸の比企郡須戸野谷(すどのや)新田(吉見町)と結ぶこの渡し場は、糠田河岸という河岸場でもあり、熊谷の久下(くげ)から下って来た船の、最初の休み場であった。

 この糠田の鎮守である当社は、朝日山と呼ばれる台地上に祀られ、須佐之男命と稲田姫命の二柱(ふたはしら)を祭神とする。そのため、本殿は二間社の流造りとなっており、内陣には「氷川大明神御宝前 享保三年(一七一八)戌二月吉日」の銘のある金幣(きんぺい)が納められている。なお、当社の境内は、昭和五十五年に県から「ふるさとの森」に選定された美しい社叢(しゃそう)に包まれており、社殿はこの森の中央にある。

 当社の由緒については、『風土記稿』糠田村の項に「氷川社 村民の持、文禄の頃(一五九二-九六)まで小社なりしが寛永年中(一六二四-四四)村の鎮守として造営すと云」と記されている。この記述と、境内が地元の旧家の河野権兵衛が代々住居を構えた「権兵衛屋敷」に近い所にあることから、当社の創建には河野家が深くかかわっていたと推測できる。現在の本殿は、享保三年(一七一八)に建立されたもので、平成五年には市の有形文化財に推定された。ちなみに、この本殿の四周には精緻な彫刻が施されているが、数年前にその一部が心ない輩に盗まれてしまったことが惜しまれる。

 

堤防のすぐ下にありながら、1718年に建立されて以降この神社には洪水の被害はなかったということでしょうか。

ここから200mほど北に、武蔵水路が荒川に合流する場所があります。

利根川の支流だった時代から荒川へ、そして武蔵水路、このあたりの水の歴史はどんな感じだったのでしょう。

 

 

境内には社務所のような別棟があり、木の縁側がありました。

しばらく腰掛けて、落ち着いた本殿の佇まいと掃き清められた境内を眺めながら休憩させてもらいました。

木陰は別世界の涼しさで、どこからか百合の香りが漂ってきました。

 

 

 

 

 

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