水の神様を訪ねる 86 原馬室から滝馬室の氷川神社

北本駅からのコミュニティバスに乗り、地蔵堂バス停で下車して一つ目の氷川神社を目指しました。

 

*石田川の上の氷川神社

 

バス停から北北東へ300mほどのところに荒川の支流の小さな川があり、その右岸側にある氷川神社です。

おそらく崖線のように少し高台になったところにある水の神様だろうと想像した通り、畑と民家の間の道を下るとその先は上り坂になっていました。

どんな川が流れているのだろうと近づくと、暗渠だったのは想定外でした。

 

石田川を検索すると、唯一詳しい説明が書かれていたのが「きまぐれ旅写真館」というブログで、ブログ名に記憶があります。利根大堰や見沼代用水などで検索するとよく見かける先人の記録でした。

 

石田川は開水路部の延長が約700mの都市下水路(雨水排水)。

鴻巣市原馬室地区からの排水を荒川の左岸へ放流している。起点区間は暗渠であり、開水路となるのは原馬室字水下付近からである。

(「きまぐれ旅写真館」「石田川」より)

地図では北本駅の北西1kmあたりから水色の線が描かれているのですが、元々はこの崖の下からの流れだったようです。

 

暗渠を渡りまっすぐ上ると、大きな木がぽつりぽつりとあるだけで木陰のないひらけた場所にお社がありました。

大きな昭和53年の社殿改修記念碑があり、その後ろにまわってみました。

 権現氷川神社は、武蔵国一宮氷川神社より分霊されたもので、須佐之男命 大名持命 奇稲田姫命の三神を祀り、遠く天正年間以前から現在地に、当時の村人たちにより産生の神として尊祀され今日に至った。

途中明和二年に社殿の改修が行われたが、当時は老杉鬱蒼として昼尚暗い老杉の中に鎮座されたと伝えられる。其の後、明治廿十九年、神社合祀の勅令が発令されたため、大正七年氏子は已むなく氷川神社を、原馬室愛宕神社に合祀することにした。しかし、乍ら権現氏子一同は、産生の神を崇敬する念絶ち難く、大正十年八月、氷川神社羽黒神社(権現社)、神明社の三社を合祀し、現在の氷川神社を新築再建して今日に至った。

其の後早くも六十年の歳月は流れ、拝殿、本社、玉垣、付属の祀社、鳥居、社務所が老朽化したため、神社総代及び氏子一同の発企に依り、氷川神社修復の事業を計画し、上記氷川神社其の他付属祀社並びに構築物修復事業費を募集したところ、敬神の念厚い氏子及び趣旨に賛同された方々のご協賛を恭うし、又、工事施行に際しては権現地区民全員の労力奉仕に依り、短日月に本事業の目的が達成され、竣工を見た次第である。

 

川を見下ろすところに立つ水の神様かと思ったら、元は産生の神で氷川神社といっても水の神様というわけではなかったのでしょうか。

それにしてもかつては鬱蒼とした鎮守の森があったようです。

 

 

 

野宮神社

 

もう一つの氷川神社を訪ねるために、途中、野宮神社の近くを通ることにしました。

涼しい森があり、そこを抜けると高台の上だというのに広い田んぼが広がっています。

夏空に、稲が風に揺れている風景は本当に幻想的ですね。

 

稲の香りとこちらは鬱蒼とした鎮守の森の中にお社がありました。

野宮神社 御由緒

 原馬室は、荒川東岸の低地から大宮台地の北西端にかけて位置する農業地域である。江戸時代には足立郡石戸領のうちで、当初は隣接する滝馬室とともに馬室村と称していたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに分村し、その地内に原野が多いことから「原」の字を冠したという。こうした鎮座地の地名の由来と、「野宮」という当社の社号との間には、深いかかわりが感じられる。

 当社は、この原馬室の中の谷津という字の氏神として祀られてきた神社であり、『風土記稿』原馬室村の項に「野々宮社 村内稲福院の持」と記されているように、江戸時代には滝馬室常勝寺の門徒である真言宗の稲荷山稲福寺が別当として管理や祭祀を行っていた。稲福寺は、当社の南隣にあったが、神仏分離によって明治六年に廃寺となった。

 狭山市北入曽(いりそ)の野々宮神社社家の宮崎家や、日高市野々宮の野々宮神社社家の野々宮家には、「神武東征の際、先祖の三兄弟が朝命によって東国に派遣され、一人は入間(北入曽)に、一人は高麗(こま、日高)に、一人は鴻巣に居を構え、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たった」との口碑がある。当社や当地には、これに類する伝承はないが、ここに伝えられる鴻巣の野々宮神社が、当社のことと思われる。

 

 

 

*滝馬室の氷川神社へ*

 

野宮神社からふたたび先ほどのバス通りであるなのはな通りに出て、道沿いに歩きました。

日差しは強く、日傘をさそうとしましたが風で吹き飛ばされそうになります。

どうやら荒川の川風のようです。

 

ふだんはこの川風を意識することのない生活なので、ついつい川の近くへの散歩を計画していても忘れてしまいます。傘を開いたり閉じたりせわしないので、景色に集中したり写真を撮るのもままならないまま歩きました。

 

畑の上を通っている「馬室陸橋」を渡り、その先に鎮守の森が見えてきました。

荒川の河岸のすぐそばにある滝馬室の氷川神社です。この辺りは河岸が広く、荒川の流れは遠く離れていて見えませんでした。

 

氷川神社 御由緒

 

 滝馬室は、隣の原馬室と共に、室町期-戦国期に見える「馬室郷」の遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。元禄年間(一六八八-一七〇四)までに分村したらしく、『元禄郷帳』に滝馬室村と見える。

 当社は荒川低地を望む台地上に鎮座している。老樹に囲まれた境内の一角からは清水が湧き出し「御手洗(みたらし)の地」となっており、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。この滝が村名の由来になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつの頃か当地に住み着いた人々が湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。また、伝説によれば「延暦年間(七八二-八〇五)坂上田村麻呂が東征の途次、農作物を荒らす大蛇を退治して、頭を当社に、胴体を地内の常勝寺に、尾は吉見町の岩殿観音に埋めた」とあり、当社と常勝寺のかかわりもうかがわせる。常勝寺は開山開基共に不祥であるが、境内には文永七年(一二七〇)「為種法入道也」などの古墳が残されており、古い時期の草創と思われる。

(以下略)

 

そういえば一つ目の氷川神社へ上り坂を歩いた後は、野宮神社、そしてこの氷川神社まで下ることはありませんでした。

「馬室陸橋」で畑や民家を見下ろしながら歩いていたこととようやくつながりました。

 

原馬室から滝馬室まで、この辺りも大宮台地の縁(へり)であり台地の上と下の境界を歩いていたようです。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら