散歩をする 458 深作から風渡野まで台地のへりを上ったり下りたり

丸が崎の氷川神社から東へと下り坂を下りると暗渠の水路があり、かつては水田だったのだろうという雰囲気の場所で住宅地になっていました。

こんもりと森が見えていたのはその名も「新田公園」で、その先に見沼代用水東縁の分水路が流れていて、その向こうに芝浦工業大学の敷地があります。

貯水池だったと思われる場所が、公園として活用されていました。

 

水の音が聞こえてきて、見沼代用水東縁がありました。はるばる利根大堰から幾つも川を越えてあちこちの水田を潤しながら瓦葺で二手に分かれるというのに、水面は静かでも人が流されるくらいの水が流れていることがわかります。

 

しばらくすると、道路の下で見沼代用水がさらに分水される場所がありました。

 

計画ではここから少し北東の、綾瀬川とその分水された水路がぐっと近づいたところにある深作の氷川神社も訪ねる予定でしたが、歩き切るためにはこのまま見沼代用水沿いに歩くことにしました。

大宮台地から下ると、縁を流れる見沼代用水の反対側は平らな場所が続きます。

水田地帯は見当たりませんでしたが、かつてはこの辺りを潤していたのだろうかとWikipediaの「深作」を読むと、全く違った歴史でした。

かつての深作村の全域が深作沼に付随する湿地帯であり、田植えも耕作船を必要とした。現在、一部を残し深作沼は埋め立てられ、宅地が造成されている。また、綾瀬川沿いに自然堤防(微高地)があり、そこに岡野洛(おかのら)と称される江戸期からの集落がある。

 

なんとかつては沼で、刈り取った稲は船に乗せるような稲作だったようです。

ああ、やはり深作の氷川神社も訪ねるべきでした。

 

右手は大宮台地の高い場所で、その下に掘られた見沼代用水沿いに歩きました。

静かな水面に落ち葉が浮いていますが、歩く速度と同じくらいで流れていきます。

途中、カワウがいました。

 

*小深作の神明神社

 

 

ずっと右手が高台、左手も住宅地の中を流れて、しばらく歩くと左手が開けてきました。田んぼかと思ったら畑地で、その先に「農村公園(春岡広場)」という広い公園がありました。遊水池のようにも見えます。

ところどころに水栓があるので、かつては田んぼだったのでしょうか。

 

右手の高台が緩やかに低くなり、見沼代用水の反対側に神社があったので立ち寄ってみました。

境内が上り坂のようになっています。

神明神社 御由緒

▫︎御縁起(歴史)

 当地は、綾瀬川を東に望む台地と綾瀬川流域に開けた鶴巻沼の低地からなる。小深作の「作」には、狭間の意があることから、当地の地名は綾瀬川の狭間に由来する。

 当社は、小深作の北方「宇中島」の見沼代用水東縁(ひがしべり)を望む大宮台地上に鎮座し、祭神は天照大神である。

 化政期(一八〇四-三〇)の記録として『風土記稿』小深作村の項には神明社は慈眼寺持ち、末社は稲荷社であると載る。当社の別当である真言宗慈眼寺は、大悲山と号し、正観音を奉安する旧深作村の覚蔵院の門徒寺である。同寺は、明治初年に廃寺となり、現在跡地は宅地となっている。

 『明細帳』によると、明治四十二年六月十日、大字小深作字小深作前村社神明社・同境内内社疱瘡社・三峯社・稲荷社・雷電社、同字無格社竈神社、同字程島無格社厳島社・同第六天社、字半縄無格社天神社の九社を合祀し、村社に昇格した。また、同日畑一反四畝歩を境内に編入した。

 明治四十三年一月二十七日、村社昇格により本拝殿を新築した。このうち本殿は神明造りで、屋根は茅葺きである。現在のような銅板葺きにしたのは平成三年四月である。

 

鶴巻沼を見下ろす場所に建っていたようです。

 

 

*大宮台地のへりの風渡野天神社*

 

しばらく左手の畑を眺めながら歩いていると、東武アーバンパークラインの線路にぶつかりました。

地図ではそこを越えられるように見えたのですが、行き止まりです。

東へと大きく畑の中を迂回して、踏切を渡りました。

この辺りも一見平地ですが、微妙に高低差があります。上ったり下ったりしながら、県道22号線に出たところで西側の大宮台地の上へと上りました。

 

暑かったので半縄橋バス停からバスに乗ろうと思いましたが、バス停付近は木陰もなく、バスが来るまでにまだ半時間ぐらいあります。

もうひと頑張り、上り坂を歩いて気になっていた風渡野天神社まで歩くことにしました。

地図では参道のそばに水路が描かれています。それに惹かれたのでした。

 

鎮守の森の広い境内は涼しく、汗が引くようです。

水路を目指して参道に向かいました。北側を通る県道2号よりも参道が一段低くなっています。

残念ながら水路は暗渠でした。

 

御由緒を読んで、少しこのあたりの地形がわかりました。

 当地は、大宮と岩槻の中ほどにある東西に細長い台地上にあり、東部には見沼代用水東縁(ひがしべり)が、西部には悪水堀が流れる。

 当社参道の前を南北に走る道は古道で、当地から南に進むと江戸に通じているので江戸道、北に進むと原市(上尾)に至るので原市道と呼ばれる。寛政十二年(一八〇〇)六月の村絵図によると江戸道沿いから当社の参道が始まり、入るとすぐに鳥居があり、さらに進むと本殿が描かれている。また、本殿裏手の境内東寄りに池が描かれている。この池は「天神池」と呼ばれていたという。

 当社の創祀については、『風土記稿』に当地が「三(*ママ)沼代用水を引けども早損あり」と記されるように天水場であったことから、祭祀は初め天神に降雨を祈るものであったと思われ、かつての村絵図の池は、溜池であったと考えられる

 祭神は、菅原道真公である。境内には、明治三十五年七月に氏子中が建立した「菅公千年記念碑」がある。

 『明細帳』によると、明治六年四月に村社に列せられ、同四十一年四月十三日、大字風渡野字鷲の無格社鷲神社と同境内の熊野社・稲荷社・秋葉社神明社、同八月二十日、大字東門前字道際(みちぎわ)の村社湯殿社・と同境内社の稲荷社二社・雷電社を合祀した。

 

どうやら県道2号線より下側だったのは、溜池だったようです。

そしてこのあたりは、見沼代用水の恩恵が少なかったのですね。

 

参道横のバス停で、初めて「ふっとの」と呼ぶことを知りました。なんとなく字面から「風がさわやかに流れる野原」をイメージしたのですが、Wikipediaによると「ふっと」はじめじめしたとか湿地を表すようです。「悪水堀」もそのためでしょうか。

 

ここまで約12700歩、見沼代用水沿いと大宮台地の崖線沿いの散歩なのでさぞかし水が豊富で稲の香りを楽しむ散歩になると期待していたのですが、まったく一箇所も水田を見ることがありませんでした。

 

 

稲が風になびく風景を期待していたので徒労感は大きかったのですが、よくよく考えると沼地だった場所をこれだけ排水させて畑地にした歴史もまたすごいことですね。どうやって水を引かせていったのでしょうか。

 

 

 

 

 

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