米のあれこれ 74 米と牛と讃岐(阿讃)山脈

香川用水について資料を読んでいると、讃岐山脈と阿讃山脈と二つの名前が出てきます。讃岐山脈は耳にしたことがありますしパソコンでもすぐに転換されますが、「阿讃」は一文字づつ打ち込みます。

山のことは本当に知らないことばかりなので、どのあたりなのだろうと頼みの綱のWikipediaを読みました。

 

阿讃山脈(あさんさんみゃく)は、讃岐山脈の徳島における呼称である。

 

阿波国讃岐国の境に続く山脈である事からこの名称で呼ばれており、讃岐山脈という名称でもむしろこちらの方が体を表しているといえる。徳島県では「讃岐山脈」がまるで香川県だけに山脈が位置しているかの様な名称であることから、あえて観光客向けのガイドなどでもマイナーな「阿讃山脈」の名称を使用している例が目立つ。また、香川県においても「阿讃山脈」と呼ぶ人も少なからずいる(特に60歳以上の人に見られる)。

Wikipedia讃岐山脈」)

デリケートな話で、さもありなんですね。

香川用水の導水トンネルが「阿讃トンネル」なのも、阿波への敬意でしょうか。

 

 

*牛と米が行き来していた讃岐山脈・阿讃岐山脈

 

Wikipediaの「讃岐山脈」によると、「高さ800mほどの山が連なり、東西方向に長く、南北方向には狭いため、急峻な山脈である」と書かれています。車窓からみた讃岐山脈はなだらかな山に見えたのですが、急峻なのかとちょっと驚きです。

 

興味深いのは、その「歴史」に書かれているのは山脈のことよりも「借耕牛(かりこうし)」についてが大半だったことでした。

 

借耕牛

借耕牛(かりこうし)とは、田を耕す田起こしおよび代掻きの時期において、犂を引くための家畜を飼育することができない小規模農家が、農繁期のみ山間の畜農家から借りていた農耕牛のこと。

江戸時代中期から昭和時代中期まで、香川県讃岐国)平野部の米作農家と徳島県阿波国)山間部の畜農家との間で行われていた相互扶助に近い農業経営上の取引活動とされる。

カリコと略されることもあり、これを取りまとめる役目を追う仲介業を兼務する農家や、貸与元の農家のことを「かりこさん」と称していた土地もある。讃岐の農繁期が終わると、米などの穀類をお礼につけて返していた。そのため阿波では米取り牛と呼ばれた。

 

経緯

水田にできる平野部が多い讃岐では米作のための耕作は欠かせなかったが、讃岐には草地がなく牛の飼育が困難であった。讃岐では広大な土地を有する実力者でなければ年間を通した牛馬などの大型家畜類の飼育は不可能であった。

一方、阿波の山間部(北西部の美馬郡・三好郡と北東部の麻植郡など)は山地ゆえに斜面が多いため、水田に開拓できる土地が少なく、米は貴重な食糧であった。

こうした事情の一致により、讃岐小農家の大半にとっては牛を飼わずに済み、阿波の山間農家にとっては少ない食糧を農繁期後の牛の労働で補える、この取引が発生したとされる。

借耕牛は農機具が普及し始めた昭和30年代まで続いたとされる。(以下略)

 

 

「犂をなんて読むんだっけ?」忘れてしまうほど、すきを使った農作業から機械化された時代の記憶しか無くなりましたが、、1960年代後半、子どもの頃に家族で四国を旅行した頃にはもしかするとまだ借耕牛がいたのかもしれません。

 

*牛にとっても危険と重労働であった*

 

Wikipediaの「讃岐山脈」では、この借耕牛の労働や山脈を行き来することの大変さにほとんどの説明が費やされていました。

 

春季の田起こしに間に合わせるため、場所によっては借耕牛は阿波の畜農家(派遣元)で山越えできるまでに育てられ冬のうちに出発し、過酷な峠の雪道を讃岐平野へと超えなければならなかった。その道のりは決して平易なものではなく、借耕牛のみならず、それを連れて移動する「かりこさん」共々に常に遭難事故との危険も隣り合わせであったとされる。のみならず農耕の戦力として期待された牛であったがゆえに特に脚部の怪我(骨折)は禁忌であり、致命傷でもあった。移動中の雪山において不慮の事故で骨折した牛は、足手まといとして谷に突き落とされ安楽死を与えられることもあった。

 

雪深い山道を抜けて派遣元の農家に到着した後も休まることはない。大抵は過酷な冬山を越えたと同時に春の訪れとなるため、借耕牛は(また力弱い仔牛であった時は成長を待つ場合もあるが)時を置かずして作業に入るのが通例と化していた。牛を長く置けば、その期間だけ派遣先の農家の負担も大きくなる一方、派遣元の農家も一刻も早い米の到着を待っているため、派遣先の米作農家は速やかな農作業と多い収穫を要求された。結果、借耕牛にかかる負担は大きくなり、時に米を収穫し終えた際には牛の疲労は筆舌に尽くしがたいものとなる場合もあったとされる。

 

米の収穫を終えると牛は再び「かりこさん」と共に阿波の派遣元農家へと帰還する。しかし派遣先での重労働や秋が深まり冬口となった気候により、時に雪期が早まった時などは、借耕牛は往時以上の消耗を抱えながら険しい峠道を越えねばならなかった。当然、この帰還時の旅程も決して楽なものではなく、往時と同様の危険がつきまとった。

 

もしかして甚之丞(じんのじょう)の四国新道は、人や物だけでなく牛のためでもあったのでしょうか。

まさに「道に歴史あり」ですね。

 

 

さらにWikipediaの「讃岐山脈」は借耕牛と人との話が続きます。

このように過酷であった借耕牛の労務だが、派遣元も派遣先も決して牛に対して情を抱いていなかったわけではない。過酷な労務はあくまでも当時の農業経営上においてやむなく行われていたもので、時期に余裕がある際には当然、牛を休ませることも行い、別れの際には涙と共に牛に感謝のため拝む事が通例となっていた土地もあった。また、地域によっては阿波へと帰っていく借耕牛に塩漬け等の旅中における防腐処置を施した瀬戸内海の海産物(これも山間部では貴重品である)を米と一緒に感謝をこめて派遣元へと託したという逸話も存在する。

こうした借耕牛の労や犠牲に報いるため、時に讃岐山脈および讃岐国内の峠道(主には国境や村境)には「牛の墓」と呼ばれ記される石碑が散見される。これは借耕牛のみならず、峠を往来する運搬に使われた流通牛も併せての弔いと感謝を示した塚であり、地元地域にとっても大事な信仰の対象となっている場合も多い。ちなみに「墓」とあるが実質上は人間の営みの犠牲となった牛たちの合祀を目的とした「塚」であるため、実際にその場に何らかの牛が弔われている、というケースは非常に稀である。

 

 

特急ならわずか10分ぐらいで讃岐山脈を超えてしまいますが、なだらかに見えた山並みにこんな歴史があったとは。

 

全国津々浦々の水田が健在な風景にはそれぞれの地域の歴史があり、今見ているのは夢のような世界のような気がしてきました。

 

 

 

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