行間を読む 193 後の世に「郷土の先覚者」となる

吉野川総合開発計画は戦後に立てられたようですが、資料館ではその発想はもっと前からあったことが展示されていました。

 

「郷土の先覚者『大久保甚之丞(じんのじょう)』と四国新道」というリーフレットがあり、この財田(さいだ)に生まれた甚之丞が新道以外にもさまざまな構想を持っていたことが紹介されています。

 

 大久保甚之丞は、嘉永2年(1849)財田上ノ村(現三豊市財田町)に生まれる。明治5年村吏となり、三野豊田郡(後の三豊郡)の吏員をはじめ数々の委員などを歴任し、明治21年には県議会議員となって活躍した。

 四国の発展に夢を抱いていた甚之丞は、明治19年(1886)四国全域を結ぶ新しい道路として四国新道の開削工事に着手した。途中にそびえる険しい山々や、地域の農民の激しい反対運動などさまざまな困難を乗り越え、明治27年(1894)に開通させた。この道路は、国道として改良工事が進められ、今も、国道32号(319号)として四国の経済や観光の大動脈として活用されている。そして、猪ノ鼻峠の道路は、より安全で円滑な交通確保や県境を越えて地域の連携強化支援のため、「国道32号猪ノ鼻道路事業」が計画されています。

 甚之丞は、当時、すでに阿讃山脈にトンネルを貫いて、吉野川の水を讃岐に引くという吉野川導水計画(現香川用水)や本州と四国に橋を架ける構想(現瀬戸大橋)を提唱するなど、その先見の明と構想の偉大さをうかがうことができる。

 

国道32号線、どのあたりだろうと地図を見直すと戸川ダムのあたりから南へ池田町のあたりまで通る道路のようです。JR土讃線にほぼ並行していますが、明治時代まではここを越えることは大変そうですね。

 

そのリーフレットの表には「甚之丞曼荼羅」という絵とともに、「讃岐殖産会社を興す」「瀬戸大橋構想」「讃岐鉄道開設」「北海道移民推進 姉妹都市洞爺村」「吉野川導水を提言」「育医講発起 医者の養成 弟とともに教育に尽くす」「四国新道着工」「養蚕・製糸・絹織物の導入 水力発電計画」などの「夢」が描かれていました。

 

1891年(明治24)に42歳で亡くなるまでに、瀬戸大橋と吉野川導水以外は実現したようです。

そして、財田(さいた)と洞爺の財田(たからだ)の関係はこの移民推進からきているのでしょうか。

 

江戸末期に生まれ明治時代にこれだけの発想を実現させるのですからすごいと思うとともに、やはり明治時代というのは今まで不可能と思われていたことが実現する驚異的に変化する時代ですね。

 

ただ、甚之丞が「山を越えて水を通す」というのも決して突飛な発想ではなく、あのもうひとつの奈良の吉野川東西分水工も江戸時代にはすでにその計画があったように、あるいは実際に江戸時代に芦ノ湖から深良用水を引いたように、資金と労働力そして技術があれば、そして人に希望を抱かせられるように説得できれば実現可能なことを知っていたのかもしれませんね。

 

イデアマンというよりはすぐれた調整役という感じだったのでしょうか。

 

 

*「わがもののひとのもののというものの ものは世間のもののものなり」*

 

その「甚之丞曼荼羅」の端に、こんなことが書かれていました。

 

笑わしゃんすな百年先は 財田の山から川舟出して 月の世界へ往来(いきき)する

一世紀後には吉野川の水をひくことが実現して、安定して水を得ることができるようになりました。

 

そしてもうひとつ。

わがもののひとのもののというものの ものは世間のもののものなり

呪文のようですが、世のため人のためということでしょうか。あるいは行基の利他行に通じるものでしょうか。

 

 

名を残した人を各地の散歩で知るにつけ、最近は個人の偉人伝というよりも一世紀後、二世紀後の社会へ豊かさをつなぐとか、「人類の為」という雰囲気が社会の中に広がった、その記録ではないかという思いが強くなってきました。

 

 

明治時代の人たちが意識を大きく変えた、その恩恵をたくさん感じるようになってきました。

 

 

 

 

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