水のあれこれ 329 香川のため池

香川県など瀬戸内海沿岸は雨が少ないのでため池が多い」と小学生の頃に習ったような気がするのですが、同じ瀬戸内海沿岸でも祖父母の水田があった倉敷ではため池を見た記憶がありませんでした。ところが50年に一度の水害が起きて、地図を確認すると同じ倉敷市内でも被害が大きかった小田川周辺にため池が散在していました。

それ以来、ため池が気になって全国津々浦々の地図を拡大してはため池を眺めています。

 

用水路が忽然と消えてしまうこともありますが、これだけのため池を把握しているインターネットの地図はすごいですね、紙の地図の時代にはわからなかった大小さまざまのため池が各地に無数に描かれています。

 

その中でも香川県はダントツにため池が多く、独特の地図です。

今回、Wikipediaの香川用水を読んで、その理由を知りました。

香川県季節風によって運ばれる海からの水蒸気が、南北の山地(中国山地四国山地)により遮られ、乾いた空気が流れ込む。そのため年間を通して降水量が少なく、大きな河川が少ないため、旱魃による水不足は深刻で古来より多くのため池を築いてきたが十分な用水の確保はできなかった。

 

岡山も雨が少ない県のようですが、それでも吉井川、旭川そして高梁川と大きな河川によって豊富な水があり広大な干拓が可能になったのは、海からの水蒸気が岡山の方へと流れているからでしょうか。そして中国山地は豪雪地帯もありますからね。

水蒸気の行方によってこんなにも気候が異なるとは、瀬戸内海の風景を眺めているだけではわからないですね。

 

 

*香川のため池の歴史*

 

水の資料館にはその香川のため池の歴史も展示されていました。

 

ため池が急速に発達した藩政時代

藩政時代には、盛んに新田の開発が行われました。これにともない、ため池も急速に発達しましたが、土木技術が未熟なこの時代、たび重なる決壊や修築工事などに駆り出される農民たちの苦役は大変なものでした。また限られた水をいかに利用するかをめぐって、讃岐地方独特の厳しい水利慣行が生まれたのも、この時代です。

 

8世紀にはすでに満濃池が造られていましたが、展示では450年ほど荒廃したままだったとありました。

荒れ果てた池を弘法大師にならって復興

江戸時代初期の寛永8年(1631)に満濃池の再築にあたったのが、土木技術家の西嶋八兵衛です。彼は伝承を調べて弘法大師の築造した池の構造を詳しく検討し、弘法大師をはじめ先人の知恵と努力に感激したということです。そして弘法大師の設計や施工技術を基に、彼自身の工夫を加えて、満濃池の再築を成功させました。

 

Wikipediaの満濃池を読み直すと、確かに「1184年(元暦(げんりゃく)元年) この年の決壊後、寛永8年の改修まで復旧されず」と書かれていました。

 

*井関池と豊稔池*

 

満濃池まんのう町から丸亀市までの県中央部に水が送られているようですが、県西部にも江戸時代初期にため池が造られたそうです。

井関(いせき)池

 

大野原開拓の歴史とともにあるため池、井関池は、江戸初期に柞田川(くにたがわ)本流を堰き止める大工事によって、築造されたため池です。井関池とともに大小の補助池の築造や用水路の開削も行われましたが、以降も大野原ではたび重なる干ばつに悩まされ続けました。

 

井関池は、大野原の開拓に力を尽くした近江の豪商平田与一左衛門によって、正保元年(1644)に築造されました。柞田川本流をせき止める難工事をわずか7ヶ月で終えましたが、その後何度も決壊と修復を繰り返しました。このため平田家の力だけでは修復ができないと、藩に何度も嘆願書を出した結果、10年後に藩普請により修復工事が行われました。

 

井関池の築造後もしばしば干ばつに見舞われました。明治・大正期に入っても水不足は深刻であったため、農民は地下水に着目し、田ごとに井戸を掘って、はねつるべで水を汲み上げるという過酷な作業に取り組みました。このため、家族総出で夜明けから日没まで汲水に明け暮れる毎日が続き、農民は疲労困ぱいしました。加えて、井関池の改修工事は幾度となく繰り返され、農民は工事に駆り出されました。

 

地図で確認すると、愛媛県徳島県との県境に近い大野原町に井関池がありました。

 

歴史と開拓の変遷 豊稔池

 

深刻な水不足を乗り越えて実現

豊稔池は、大野原での深刻な水不足を解消するために、井関池の上流部に築造された、貯水量約159万トンのダムです。日本で唯一のマルチプルアーチダムとして高く評価されていますが、その実現の影には、大野原の農民の血のにじむような努力があったことを忘れることはできません。

 

Wikipediaの豊稔池によると、「地元住民による組合が部分請負して工事にあたり、延べ15万人による人海作戦術により約4年の短期完成を実現」とあり、まさに人の手による土木工事の写真が資料館に展示されていました。

1924年大正13年) 旱魃、農民一揆」「1926年(大正15年) ダム着工」とありますが、「血のにじむような努力」は現代からは想像しがたいことですね。

 

 

出かける前に、この香川県西部のため池もあちこち拡大して見ていたのですが、資料館でその歴史を知ることができました。

そして「ダムは近代的なもの」「自然を壊す」というのは思い込みで、古来のため池からの長い歴史があることをまた認識したのでした。

 

 

 

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