米のあれこれ 81 古墳の上にあった大塚村の幻の水路と田んぼ

JR南田辺駅から桃が池公園を訪ね、近鉄線北田辺駅に向う住宅地を歩くと駅の近くに古くからのアーケード街があり、10時前だというのにけっこう年配の人たちが自転車で集まってきて買い物をしていました。

ついついその雰囲気に混じってお店をのぞいて歩きたくなりましたが、先を急がなければなりません。

北田辺駅から近鉄線で南側へと戻って大和川を再び渡り、最初は河内松原駅で下車しました。

途中、「針中野」とか「瓜破(うりわり)」と興味深い地名に途中下車したくなりますが先を急ぎます。

 

河内松原駅の南東へと少し歩いたところに小さな水路があり、その先にため池があるはずです。

少し蛇行した古い商店街を抜けるとありました。「反正山水利組合」とあるので、パッと見た感じではわからないのですが少し小高い場所にため池が造られて、西の端に分水路がありそばに墓地がありました。

おそらく水田地帯だったのでしょう。私が子どもの頃だったら、稲穂が広がる風景を見ることができたかもしれませんね。

阪和自動車道の下を東側に向かうと、森が見えます。そこが次の目的地の河内大塚山古墳で、蔵のある古い立派な家々が残る住宅地を抜けると、目の前に周濠が広がりました。

 

周濠の北側を歩くと途中から道を隔てたところに水路らしきものがあり、北東の古墳の角のあたりから一段低いところにある住宅地を歩いて恵我ノ荘駅につきました。

 

 

*かつて古墳に集落があった*

 

河内大塚山古墳はかなり大きい周濠に囲まれていますが、Wikipediaには世界遺産には含まれていないとあります。

 

古墳のそばの案内にこんなことが書かれていました。

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)

 河内大塚山古墳は、西大塚の東除川(ひがしよけがわ)西側に発達した、中位段丘面に築かれている。周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m 、前方部230m、後円部直径185m、前方部高4m、後円部高45mに及び、松原市内で最も標高が高い。

 墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平板低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石(ふきいし)の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集(あぼしんのうこととりしゅう)」(山口県立文書館)に「磨戸石(みがきどいし)」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石(たつやまいし)や花崗岩が柴籬(しばがき)神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること。

 このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。

 中世には、丹下氏が古墳を利用して、丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神天満宮(菅原神社)が祀られた。

 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。

 6世紀時代の安閑(あんかん)天皇や、欽明(きんめい)天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。

           松原ライオンズクラブ 2010.11   

(強調は引用者による)

 

なんと、江戸時代から明治時代にかけて、古墳内に村があったようです。

周囲には水田が広がっていたのでしょうか。

天皇陵の周濠の水が稲作に利用されていただけでなく、その古墳の上で暮らしていたとは想像もしていませんでした。

 

 

*おまけ*

 

あの7世紀ごろ、南河内の地溝開発で造られた狭山池からの東除川がこの段丘の下を通っていることがつながりました。

狭山池からここまでも数々のため池がありますが、当時はどんな風景だったのでしょう。

 

 

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら