水のあれこれ 336 「1,400年の歴史を刻む日本最古のダム式ため池」

雷鳴も聞こえ始め今にも土砂降りになりそうな中、間一髪で大阪府立狭山池博物館へと入りました。

 

ところが、おしゃれなその建物はさらに入り口まで打ちっぱなしのコンクリートの建物に沿って延々と歩くようです。しかも地下と入る場所には壁から水が流れるようになっているデザインで、池がありました。

建物全体はコンクリート打ちっ放しの巨大な直方体であり、地域のランドマーク的存在。狭山池全体から見渡すことができる。エントランスから建物入口までに水庭があるほか、壁面に滝が設けられており、親水空間となっている。

Wikipedia「大阪府立狭山池博物館」

 

お天気の時ならおしゃれですが、土砂降りを避けようとしている時にしかも誰も歩いている人がいないので、まるで洪水に遭いそうな恐怖感を感じました。まあ、水のありがたさだけでなく怖さも感じるのは目的にかなっているかもしれませんね。

 

 

*日本最古のダム式ため池*

 

中は明るく広々としていて、日本最古のダム式ため池の歴史が見やすく展示されていました。

 

資料の展示にたどり着くまで、また細い道を通ります。

・第1ゾーン:狭山池への招待-高さ約15m、幅約60mの堤の断面を移築展示。

見上げるような堤防の何層にも土が固められた跡でしょうか、その断面を見ることができるのは圧巻です。讃岐のため池のように「人手で入念に土を搗き固める均一工法」でしょうか、それとも博物館の年表に「狭山池の誕生(616年ごろ)」とありましたがその当時はまた別の方法だったのでしょうか。

いずれにしても気が遠くなるような重労働ですね。

 

行基さんが狭山池をつくったのではなく、改修にたずさわったようです。

▪️行基の改修(731年)

  池の近くに狭山池院・尼院を作る。

(博物館の年表より)

 

*「南河内の地溝開発」*

 

地図ではこの狭山池をはじめ大阪南部に大小たくさんのため池があるのですが、大和川左岸の地域を潤すためなのだろうと思っていました。

 

ところが、「南河内の地溝開発」の絵図を見てまったくスケールが違うことを知りました。

古代国家は七世紀の南河内で、かんがい用の大溝やため池を造り、耕地の大規模な開発を行った。

 

七世紀ごろは難波のあたりからこの狭山池までと現在の東大阪市のあたりまででしょうか、東西南北に「難波堀江」「河内湖」が描かれていて、旧大和川が現在よりも北西へと流れて難波堀江へと流れ込んでいます。

現在の大阪駅周辺の複雑な路線図が入ってしまいそうな大きな池です。

 

南河内の地溝開発

 7世紀は、ため池やかんがいの水路を整備する地溝開発を古代国家が積極的におし進めた時代である。狭山池の誕生は、それを代表するできごとである。特に大和川の付け替えで亡くなった依綱(よさみ)池も、この時代に誕生した。

 大規模な水路には、富田林市から大阪市にかけて延長10km以上とも推定されている古市大溝がある、西除川東除川の間には丹比(たじひ)大溝が、西除川の左岸には河合(かわい)大溝がひらかれた。

 また7世紀には、低地の再開発も進んだ。大阪市城山遺跡の大畦(あぜ)からは、国家的開発の存在を物語る「冨官家」と記された土器が見つかっている。

(博物館展示より)

 

難波堀江の南側にその西除川東除川が流れ込んでいたようですが、そこを堰き止めたのがこの狭山池だったようです。

 

十数世紀前にこうした事業がなければ、大阪は大きな湖で南北が分断されていたのでしょうか。

行基さんの時代の公共事業とは、技術もその発想もすごいと改めて思いました。

 

 

大和川を付け替える*

 

7世紀にはつくられていた狭山池は何度も改修されながら維持されるとともに、大和川を付け替えるという発想が実現したのが1704年だったようです。

 

大和川の付け替えと依網(よさみ)池

 大和川は、かつて柏原市築留(つきどめ)付近から北へ流れ、大阪城の東北で淀川と合流していた。そのため、八尾市・東大阪市などは何度も洪水におそわれた。平安時代初めの和気清麻呂(わけのきよまろ)を最初として、大阪湾へ大和川を直接つなげる計画は何度か立てられたが、実現しなかった。

 宝永元(1704)年、中甚兵衛(じんべえ)らの努力によって現在の大和川に付け替えられ、川の跡は新しい田畑になり安心して農業ができるようになった。

 新しい大和川は、古代につくられた溜池である依網池や狭山池のかんがい範囲を横断してつくられた。一方、水源を失ったり、あらたに洪水におそわれる地域もあった。

(博物館の展示より)

 

3年前に通った生駒山と葛城山の間を大和川が抜けて大阪へ出るあたりの風景は、18世紀以降のものだったのですね。

 

大和川の旧河道はどのあたりを流れていたのでしょう、そして羽曳野市にある古墳と周濠との関係はどんな感じだったのでしょう。

またまた宿題が増えてしまいました。困りましたね。

 

 

 

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