散歩をする 502 藤井寺駅から周濠を訪ね歩く

古墳内にも村があったことに驚きながら、近鉄恵我ノ荘駅から藤井寺駅に向かいました。

ほんとうはその間にもいくつかため池や古墳があるので歩いてみたかったのですが、とてもとても時間も体力も無理そうです。

 

実は今回の大阪内の周濠を歩く計画を立てていた時はまだ古市古墳群と呼ぶことを知らず、「羽曳野のあたりの古墳が多い場所」とか「大和川左岸のため池と周濠が多い場所」の認識でした。

こうして思い出しながら散歩の記録を書くためにあれこれ読み直して、「百舌鳥古墳群・古市古墳群」であることを知りました。

 

藤井寺駅から土師ノ里駅までの間の古墳をいくつかつなげながら歩く計画です。

ところで土師ノ里(はじのさと)駅も、その読み方を全然覚えられなくていまだに「どし」と呼んでしまうくらい、古墳やその土木技術の知識がないままです。ただただ周濠とその周囲の風景、とくに田んぼと水路を見たいというニッチな趣味ですね。

 

 

藤井寺駅から古墳を訪ね歩く*

 

 

近鉄藤井寺駅で下車し、最初の目的地仲哀天皇陵を確認しようと地図を見たらありません。よくよく見ると、あの香芝市のガイドマップのように南北が逆さまに描かれていたのでした。その土地の生活上で何か理由があるのでしょうか。

 

ちょうど11時30分で、お腹が空きました。朝からだいぶ歩き、午後も古墳を回りますから商店街でお昼ご飯にましょう。ところが「11時30分開店」と出ているお店の前で待ってみましたが気配もありません。自転車で来た男性が、待っている私を見て「今日はやっていないみたい。あっちもお店があるよ(関西弁)」と教えてくれました。なんという心遣いでしょうか。こんなところが関西っぽいですね。

 

教えていただいたお店でしたが、「今はうどんの気分」だったのでそのまま古墳をめぐることにしました。

商店街を抜けて門前町のような場所の先は、古墳に向けて少し下り坂のようです。途中に酒蔵がありました。

仲哀天皇陵の古墳の森が見えましたが、空腹に負けて応神天皇陵へと向かうことにしました。

 

地図に水色のため池のような場所が描かれているのですが、そこには大きな船の形をした「アイセルシュラホール」という藤井寺市の建物がありました。ため池を利用して造られたのでしょうか。

そのあたりから水路や畑が残る住宅地になり、最近はどこでも散歩をしていて人と出会うことが少ないのですけれど、途中、けっこうな人とすれ違いました。

 

1月中旬、蝋梅や水仙が美しく癒されながら東へと少しずつ下り坂を歩くと、住宅地の中に庭のようにサンド山古墳があり、その先に住宅地内のロータリーかと思ったら蕃所山古墳で大きな木が生えていました。

 

応神天皇陵の周濠と田んぼ*

 

緩やかに下ると水路があって、国道170号線がバイパスとに分かれるのでしょうか、交通量の多い三叉路がありその先に応神天皇陵の森が見えました。

古墳の西側には水田があります。

田んぼのそばの水路が三叉路の下から流れてくる「誉田一号暗渠」に合流し、応神天皇陵の北側からいくつかの水路を合わせながら、最後は大和川へ合流するようです。

このあたりからは水田が多いのかもしれません。

 

応神天皇陵の北西は周濠のギリギリまで、80年代ごろの住宅地でしょうか住宅が建ち並んでいます。

途中、周濠のそばに近づける場所があり、案内板がありました。

史跡古市古墳群 応神天皇陵古墳外濠外堤(がいごうがいてい)

 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径約250m、前方部幅約300m、高さは後円部頂上で約36mの規模を有します。墳丘長は百舌鳥古墳群仁徳天皇陵古墳(大山(だいせん)古墳)に次いで我が国第2位の規模ですが、墳丘の体積についてはこれを凌いで我が国第1位とも言われています。また、大規模な墳丘とともに二重の濠と堤を持ち、前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿を示しています

 この場所は応神天皇陵古墳の前方部の北西方向の外濠に相当し、前面に広がる樹木が繁茂している箇所は内堤に当たります。

 応神天皇陵古墳は小高い丘が広がっている所に位置していますが、その地形の高まりの範囲をはみ出した部分にも土を盛って、その上に墳丘が造られているようです。さらにこの場所に古墳を築造するために、そこを流れていた河川をも付け替えていることが周辺の発掘調査から推定されています。

 また、この場所から臨むことのできる内堤に置いて、初夏にヒメボタルが飛来している様子を観察できることもあります。

          羽曳野市

(強調は引用者による)

 

先ほどの水田は、二重の濠の外側だったようです。

周濠と水田から古墳にも関心が広がりその専門用語に少し慣れてきたのですが、「前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿」という意味はちょっと慣れないものでした。

 

ちなみに「誉田」は「ほまれだ」かと思ったら「こんだ」と読むようですが、これが付け替えられた川だったのでしょうか。

5世紀にはすでに「川を付け替える」ことが行われていたのですから、すごいことですね。

誉田一号暗渠の水路はそのすぐ先で大きく北へと曲がり、遊歩道が整備されていました。

その角のような場所に、もう一つ小さな「誉田円山古墳」がありました。

 

水仙の花が美しく咲き、古墳の森の静けさの中、そばにある東屋でしばらく休憩をしました。

5世紀ごろ、この辺りはどんな風景だったのでしょう。

 

 

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