散歩をする 490 血洗島から岡部駅まで歴史を歩く

美味しい煮ぼうとうに満足し、渋沢栄一氏の生家から駐車場のトイレの中まで、渋沢栄一氏の生きた時代について考える場所でした。

 

13時20分に散歩を再開し、いよいよ「血洗島」という地域へと向かいました。

薬師堂を曲がると、昔懐かしい住宅地と広い畑に祖父母の家の周辺を歩いているような錯覚に陥りました。水田はないのですが、畑が白っぽい土だからでしょうか。

 

どこまでもどこまでも広く平らな畑地が続いています。真っ青な秋空を遮るものもありません。

「ああ、これが関東平野だ」と思ったのですが、ほんの少し前は「大昔の人がこのだだっ広い水も豊かな場所を見つけて住み始めた」のだと思い込んでいました。

 

河道が安定しない利根川は江戸の中心部まで洪水の影響を与える暴れ川で、江戸時代の利根川東遷事業によって川を付け替え新田開拓が進んだものの、1738年の浅間山の噴火による大量の火山灰が利根川に流れ込むなど災害をなん度も乗り越えながら、関東平野を流れる川を付け替えながら17世紀に始まった関東平野への用水路網が何世紀もかけて現在のような地形へと変えていったと、おぼろげながら理解できるようになりました。

 

畑や家がどこからともなく押し寄せてくる洪水に流されるなんて、昔の人はなんと怖い思いをされていたのでしょう。

川がどこを流れるかわからない時代があったとは。

そして土地があっても水を得ることができなければ生きることもできない。

 

現在の「血洗島」は真っ青に育った広大なネギ畑が美しく、農家の方が散水されていました。

ああなんと得難い風景なのだろうと思いながら歩きました。

 

 

備前渠を渡り、中宿歴史公園へ*

 

沿道や庭先の秋の花を楽しみながら歩き、町田という住宅地を抜けると土手が見えてきました。

 

幅2~3mの川に水が滔々とながれています。「喜七八橋」と名前が入った橋のたもとに「備前渠川の草刈り」の日程が書かれていました。

これが今回の散歩の目的でもある備前渠です。翌日はいよいよこの取水口を訪ねるのだと思うと心が弾みながら渡りました。

 

ここから県道259号線沿いにまっすぐ300mほど歩くと一級河川小山(こやま)川で、先ほどの備前渠の2倍ぐらいの川幅でしょうか、こちらも土手や水が青空に映えて美しい川です。

数百メートル下流で先ほどの備前渠は一旦小山川に合流し、1kmぐらい下流でまた備前渠として分かれていくようです。

 

小山川の右岸側には広い水田が広がっていました。そこから緩やかに上り坂になる手前に公園と道の駅があります。

 

河岸段丘の地形をそのまま利用した中宿歴史公園に入ると蓮の葉が揺れる小さな池があり、それを眺められるように東屋が建っていました。しばらくそこで休憩し、公園の南側へと歩くと中宿古代倉庫群跡がありました。1991年(平成3)に発掘されたそうで、校倉造の建物が再現されていました。

 

高台の少し手前の斜面に建てられていましたが、7世紀末から10世紀頃はどのあたりまで洪水が押し寄せてきたのだろう。

そんなことを考えながら坂道を上ると、古い家屋が残る落ち着いた街に入りました。

 

 

中山道沿いの岡を歩く*

 

その前に立ち寄った道の駅で見た岡野藩についての説明ではこの辺りに旧中山道が通っていたようですから、それで石垣や生垣の美しい家々が残っているのでしょうか。

 

岡部藩について

岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安倍信勝が武蔵国榛沢群岡部などを拝領した計5,250石を基に発展しました。

信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永13年(1636)に三河国内4,000石増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。

その後、所領高20,250石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安倍家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。

慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。

 

以前ならこうした歴史の記述はなかなか頭に入ってこなかったのですが、最近は川の歴史や新田開発の年表と重ね合わすことで読みやすくなってきました。

 

それにしても、新幹線の沿線を歩くだけでも時間がかかるのに、昔の人は日本各地をダイナミックに移動していたのですね。

 

この古い家が残る地域は「岡」という地名のようで、国道17号線を渡ると台地の上に広がる畑がありました。

ブロッコリーが植えられていて、視界をさえぎるものもなく遠くの山並みまで見えます。

ところどころ大きな木がランドマークのように立っている風景は、どこを映しても絵になりそうです。

 

60年ほど前の都内の武蔵野台地もこんな感じだったと、かすかに残る幼児の記憶を重ね合わせながら歩いていると、本日最後の目的地らしい場所が見えてきました。

 

畑の隅にお椀を伏せたような場所があり、その上に大きな木が育っているのが見えます。

お手長山古墳(おてながやまこふん)

 

 お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽(くしびき)台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男(あめのたながお)神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。

 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五〇年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。

 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はNー一一六度ーEを示す。周溝からは、土師器(はじき)・須恵器(すえき)等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安産岩、かくせんせきあんざんがん)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝内より埴輪が検出されず、当地域の古墳に埴輪が樹立されなくなる時期が六世紀末頃であること等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。

 当古墳の北西には四十塚(しじゅうづか)古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)・五鈴付鏡板(ごれいつきかがみいた)などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚(とらいなりづか)古墳が存在する。

 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以降は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢郡衙(はんざわぐんが、郡役所)は古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる。

   深谷市教育委員会

 

これまた以前だったら素通りしていたような場所ですが、奈良で周濠という言葉を知ったことから古墳まで訪ね歩くようになりました。

 

思えば遠くに来たものだと思いながら、JR岡部駅へと向いました。

 

何度か高崎方面への湘南新宿ラインでこの駅を通過していたのですが、その車窓の向こうにはまた圧倒される歴史がたくさんありました。

そして1.5キロメートルほど南東を新幹線が通っています。平地ですからこの辺りまで見えていたのでしょうか。

いつかそれを確認するために今度は新幹線の線路沿いを歩いてみよう、また計画ができました。

 

 

 

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