大阪の古墳とその周濠を見て歩く計画は、2019年からのやり残した宿題でもあります。
遠出を始めたばかりの2019年2月に木曽三川からぐるりと紀伊半島を回って新大阪へと戻る時に夕闇の中で気づいたのでした。当時はまだ古墳にはそれほど関心もなかったのですが、特急で通過した時には平地にしか感じなかったのに、ちょうどブラタモリで「見晴らしの良い高台に古墳群が造られた」ことを放送していたことが記憶に残り、いつか歩いてみたいと思っていました。
「百舌鳥」という地名にも惹きつけられますしね。
そのうちに奈良の古墳の周濠の水は田んぼに利用されていたことを知り、大阪のこの周濠もやはりそうなのだろうかと気になっていました。
2022年11月に久米田池を訪ねた時は体力の限界であきらめ、2023年9月に狭山池を訪ねるときは詰め込み過ぎの計画でそばを通るだけになってしまいました。
いよいよ今回の遠出はこの百舌鳥古墳群と、さらに翌日には古市古墳群の周濠をみてまわる予定です。ちょっと無謀な予感もするのですが。
*百舌鳥古墳群を歩く*
行基さんが生まれ育った家原を訪ねて満足し、津久野駅からJR阪和線で一駅の上野芝駅に向かいました。
Wikipediaによると2019年7月に世界遺産に登録されたようですが、上野芝駅の周辺には特に案内表示はなくて、かえって巨大な古墳群が普通に生活の中にあるようなうらやましさを感じました。
駅を出て最初の履中天皇百舌鳥耳原南塚へ向かいましたが、途中、府道34号線がJR阪和線の下をくぐってさらに下り坂になっているのが見えました。
西と北はそれぞれ緑ヶ丘と旭ヶ丘で、時々西側へと続く道路の先に堺の港湾施設が見えました。「標高15~22mの台地の西縁部」(Wikipedia)でそばを石津川が流れているようです。
南側は周濠のギリギリまで住宅が建ちそのあいまに古墳の森が見えていましたが、やがて周濠が見えて、周囲の遊歩道に入りました。
1926年(大正15年)当時は「東側の周濠に沿って延びる田んぼの畦が存在した」(Wikipedia)とのことですが、どんな風景だったのでしょう。
周濠の水面を眺めながら数百メートルほど歩くと、履中天皇陵の北側と接している大仙公園に出ました。ここにも、中小さまざまな古墳がありました。
計画ではJR阪和線の東側にあるいたすけ古墳や御廟山古墳をまわってから仁徳天皇陵の周濠を歩くつもりでしたが、履中天皇陵の周濠だけでも相当な距離なのに仁徳天皇陵はさらに1.5倍ぐらいありますからね。これは無理だとわかりました。
*見晴らしの良い台地の上*
午前中からすでに19000歩、休憩も兼ねて堺市立博物館に入りました。
百舌鳥古墳群ー巨大古墳が集まるー
百舌鳥古墳群は、大阪湾上の船からよく見えるよう台地の上に造られており、このことから当時の王権が海外に目を向けていたことがよくわかります。墳丘の長さは10m~500m近くとさまざまですが、300m以上もある巨大な古墳を3基含んでいます。墳丘の形は、前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳の4種があります。この古墳の大きさと形の違いから、埋葬された人の生前の政治的、社会的な序列や身分が読み取れるため、百舌鳥古墳群は古市古墳群と共に、当時の政治・社会の階層構造を示すものとして、日本の古墳群の代表といえます。
(展示より)
巨大でしかも数多い古墳に圧倒されましたが、その高台にある周濠を満たす水はどこから来ているのか、その水を田んぼに利用し始めたのはいつ頃なのか、素朴な疑問の答えはまだ見つからなさそうです。
土塔 についてと大和川についての資料を買って、また歩き始めました。
博物館を出ると、目の前が仁徳天皇陵の外側の周濠です。三国ヶ丘の駅に行くには歩き切るしかないので、疲れた足を引きずりながらただひたすら鬱蒼とした古墳の森と周濠の水を眺めながら歩きました。
日当たりの良い土手に、水仙が咲いていました。古墳の周濠の美しさにますます惹かれていきそうです。
途中、周濠から取水口と分水路のようなものがありました。かつてはこのあたりにも田んぼがあったのでしょうか。
そういえば三国ヶ丘ですからここも台地の上ですね。
駅から北へ2kmほどで現在の大和川がありますが、1704年に付け替えられるまでは淀川に合流していたとのことなので、高台はもっと北の方へと自然堤防のように続いていたのでしょうか。
「百舌鳥古墳群を訪ね歩く」、実際には5分の1も達成できていないので、またやり残した宿題になりました。
「散歩をする」まとめはこちら。