水のあれこれ 348 「他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている」大水川

「大水川」、私がいつも利用している地図には名前が載っていません。

 

どこを流れているかというと、応神天皇陵古墳の周濠の北側の「誉田(こんだ)一号暗渠」が開渠になって遊歩道のそばを流れ、隣接する誉田円山古墳のところでぐいっと北へと流れを変える小さな川です。

 

たまたまその川を撮った写真に、欄干の「おおずいがわ」という表記が映り込んでいました。

どんな漢字だろうと検索したところ「Web 風土記 ふじいでら」というサイトで「大水川」だとわかったのですが、11ページもの説明がありました。なんという無名の川への愛を感じる先人の記録でしょうか。

 

大和川水系の大水川*

 

(おおずいがわ) 一級河川 <一級水系大和川> <大阪府

近畿日本鉄道南大阪線 土師ノ里駅より府道・堺大阪大和高田線を西へ約700m  徒歩12分

流路延長 約4.5km

流域面積2.7㎢ 指定延長 2.5km   管理:大阪府富田林土木事務所

(上記サイトより)

ここ数年であちこちの川を歩いていますが、その中でも小さな川です。

 

 藤井寺市を流れる主要河川(一級河川)を取り上げるとなると、大水川は大和川・石川・落堀川(おちぼりがわ)に次いで、どうしても4番目になってしまいます。ただし、これは流路の長さや川幅などの外見的な河川規模で比べた結果であって、別の顔ともいうべき地理的・歴史的な背景を見ていくと、大水川は決して他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている川であると言えます。

 

この最初の一文にぐいぐいと惹きつけられたのですが、さらに大水川の地理から歴史まで、川について知りたいと思う説明が書かれていました。

添付されている地図には小さな水路の名前まで正確に記されています。

 

一見、文学的表現のような出だしですが、その小さな川の成り立ちや地形、災害や水利や下水の施設など生活に関わる歴史が網羅された正確な内容が記されていました。

 

 

*現代の大水川(おおずいがわ)と王水川(おうみずがわ)ー水源は石川*

 

応神天皇陵の周濠に沿って水路が複雑にあるのでその水路を合わせた流れだろうと推測していたのですが、このサイトには詳細が書かれていました。

 

(中略)大和川の一次支川である石川にある樋門から導入された水が、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の南から西へ流れて王水川(おうみずがわ)から分流した後、国道170号線の地下を暗渠(あんきょ)で曲がりながら通ります。この暗渠は「誉田(こんだ)1号暗渠」と言いますが、暗渠の出口が法河川としての「大水川」の開始点です。

 

石川といえば、昨年9月に狭山池から近鉄長野線と近鉄南大阪線を乗り継いで奈良へ向かった時にその両岸に美しい水田や水路があったことが記憶に残りました。

その古市駅から東へ数百メートルの石川左岸にたしかに水路と水路が交差して、その細い一本が北から北西へと曲がりながら応神天皇陵のそばの水田近くを流れています。

これが王水川だったようです。そしてその先の国道170号線とバイパスの三叉路の下で暗渠としてぐいと東へと曲がったのが、あの誉田1号暗渠でした。

 

暗渠のあたりで分水された王水川は、私が歩いたあの酒蔵やアイシェルアシュラホールのあたりから下り坂になった先の平地を潤していたようです。

 

石川から取水し、藤井寺市羽曳野市の台地の下側を潤しながら大和川へと流れる用水路だったわけですからこれだけでもすごい「プロフィール」に出会いました。

 

 

*おまけ*

 

一見、地図では大水川が現在の大和川へと合流しているように見えるので「大和川へと流れる」と書いたのですが、この資料を読んで初めて、その手前に大和川に並行して小さな落堀川があってそこに合流していることがわかりました。

 

江戸時代の大和川の付け替えの際、地形的に直接合流させることが難しいためにそのような形になったことが書かれていて、それが現代にも生かされていることにまた江戸時代の土木事業の凄さが印象に残りました。

 

 

 

 

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