誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のそばの大水川(おおずいがわ)は、石川から取水した重要な用水路だということまでわかりました。
では、古墳と用水路ではどちらが先なのだろうという素朴な疑問が湧きました。
さすがに古代にここまで大掛かりな用水路を引くことはなかったでしょうからね。
*石川からの取水はいつ頃だったのか?*
そのすごい役割を持つ水路であることを知ることができた「Web 風土記 ふじいでら」という先人の記録には、詳細な説明がありました。
まず、石川からの水路は18世紀の頃のもののようです。
大水川(おおずいがわ)の水源を引き込む取水堰は、国道170号応神陵前交差点の横に立つ大水川説明板によれば、「八ヶ樋取水口」となっています。①図で「王水樋」と表示している取水堰のことです。「八ヶ樋」の「八」とは、「八ヵ村」のことを表しており、もととなるのは「八ヶ村王水組合」です。八ヶ樋取水口とは八ヵ村王水樋組合によって設置・管理されていた取水堰なのです。
この八ヵ村王水樋組合は、江戸時代までに成立していたもので、現在の羽曳野・藤井寺の両市域に存在した8ヵ村によって構成されていました。この8ヵ村とは、18世紀段階では誉田(現羽曳野市)・道明寺・古室(こむろ)・沢田・林・藤井寺・岡・小山(以上現藤井寺市)でしたが、『藤井寺市史第2巻 通史編二 近世』の「第2章 水をめぐる村むらのむすびつき」の記述によれば、戦国時代にはすでに王水樋組合が成立していたことが述べられており、17世紀段階では7ヵ村組合であったことも示されています。8ヵ村組合が記録された最も古い史料は、1654(承応3)年のものだそうです。構成する村の和也組み合わせには、時代によって若干の変動があったようです。
大和川が付け替えられたのが1704年ですから、その時代に造られたのでしょうか。
現在の地図を見ると、応神天皇陵の周濠から北へと曲がった大水川は古室から沢田地区へと流れ、沢田の交差点の先で北西へとまっすぐ流れています。その北西へと向きを変えるところから北東へも小さな水路が描かれていますが、これが「旧大水川」あるいは「大乗川」だったそうです。
現在藤井寺市の北部を流れている大和川は、1704(宝永元)年に造成工事によって造られた川です。それまでの石川と合流して北へ向かっていた大和川の流路を、合流点から西へ曲げて大阪湾まで新しい流路に変えるという大工事でした。「大和川の付け替え」と呼ばれている歴史的な大事業でしたが、事業の全体像は別ページを見てください。
その付け替え工事でできた川の一部が、23)図に見える大和川です。よく見ると、北方へ流れていく大乗川が大和川によって断ち切られているのがわかります。大乗川の水を新大和川に流入させることはできないので、堤防の南側に作った落堀川に合流させ、西の方へ流してから大和川へ流入させるようにしました。大乗川から直接大和川に流入させる構造だと、大和川の増水時に逆流してしまうのです。
確かに地図で確認すると、大水川はそのまま直接大和川へ合流しているわけではなく、手前に並行する水路があってそちらに合流しています。
これは現代の治水工事によるものかと思ったら、江戸時代の川の付け替えの技術だったようです。
*古墳が造られた時代は水はどう流れていたのだろう?*
もう一つの疑問は、応神天皇陵の周濠の水はどうやって得られたかということです。
大水川が石川と新しい大和川を結ぶ用水路として整備されたのであれば、それ以前は水をどうやって得ていたのだろうと。
答えがちゃんと書かれていました。
応神天皇陵ができる前は、南側からその大乗川(旧大水川)がまっすぐ北へと流れている図がありました。
もともと川があったようです。
図でわかるように、藤井寺市域の地形は南側が高く、北側へ緩やかに下って行ってます。市の南部は、羽曳野丘陵と呼ばれる南から伸びる丘陵地形の北端部に当たります。それは低位段丘と呼ばれる地形で、V字型の段丘を形成しています。東側の半島のような形の段丘は、「国府(こう)台地」とも呼ばれる場所で、多くの古墳が築かれた場所として知られています。
そういえば、藤井寺駅の方から応神天皇陵のある場所へは下り坂で、その東側はまた小高くなっていた記憶があります。この後訪ねたいくつかの古墳があり、土師ノ里駅も確かに小高い場所にありましたが、これが国府台地だったようです。
大水川のあたりがV字型の底の部分で、古墳が造られた時代には丘陵から流れ出たまっすぐな川があったようです。
そして5世紀初頭に応神天皇陵が造られた時に、大乗川が周濠に沿って付け替えられたようです。Wikipediaには「不安定な氾濫原」と記されています。
この先人の記録に出会ったおかげで、大水川とその地形や歴史がパズルを解くように見えてきました。
*「目立たずとも重要な『大水川』*
11ページにわたる大水川の説明の最後に、こうまとめられていました。
少々長い説明となりましたが、「大水川」という川が、度々流路を変えられたり名前を変えられたりしてきた歴史を紹介しました。藤井寺市内では、同じ市内に大和川や石川という川が流れているために、川と言うとどうしてもそちらに目が向いてしまいます。しかしながら、紹介したように地形との関係を見ていくと、この地域にとって大水川が大変重要な存在であることをわかっていただけると思います。日頃大水川が注目されることは、まずないと言ってよいでしょう。注目されることもほぼありません。実に目立たない川と言える存在だと思います。ところが、ひとたび地域が集中豪雨にあえば、大水川の役割は最重要となってくるのです。落堀川の立場もほぼ同じだと言ってよいでしょう。
全国津々浦々、地図に名前さえ載っていないどんな小さな流れでも、同じようにその存在に意味がある。
次はどの川の歴史と出会えるのか、そしてその先人の記録に出会えるのかまた楽しみになってきました。
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