完全母乳という言葉を問い直す 6 <調整乳反対キャンペーンと母乳哺育推進運動を支持した人々>

途上国での乳児死亡率の増加に対して、単純な原因(多国籍企業の粉ミルク販売促進)と単純な解決策(母乳推進運動)に答えを見つけて、調整乳反対運動と母乳哺育推進運動が広がっていくことになったことは前回の記事で書きました。


ラファエル氏は、「第7章 母乳哺育の政治学」の中で以下のように書いています。

一般の人々は第三世界の女性や子どもの状態について何の知識もないまま、簡単に世間に流布している説を受け容れてしまいました。


<途上国の「貧困」とは>


(ラファエル氏がこの本を書いた時期はまだ「第三世界」という言葉が使われていましたので原文のまま掲載しますが、私のほうでは「途上国」を使用します。)


先進国ではどのように途上国の貧しさが伝えられて、どのようなイメージを持っているのでしょうか?


「途上国の貧困」というと、私はまずアフリカの飢餓の子どもたちの写真が目に浮かんでしまいます。
うつろな目で手足はガリガリにやせてお腹だけが膨らんだクワシオコールという栄養失調の子ども。着の身着のままでボロボロの汚れた服で、やせ細ったお母さんのしわしわのおっぱいに吸いついている赤ちゃん。
国際機関や海外の医療援助団体によって、こういうインパクトのある写真が使われてきました。


たしかにそういう現実もあります。
でもそれは戦争や旱魃などの途上国の中でも「非日常」の風景なのです。


途上国の日常の貧しさというのは、私が思い浮かべるような状況とはまた異なりました。
私が途上国で暮らして一番印象に残っているのが、人々の身なりの清潔さでした。普段着は穴が空いていたりしますが、一歩外に出るときには、清潔に洗濯されピシッとアイロンをかけた服を着て出かけます。
辺境の村々を訪れるときにはぎゅうぎゅう詰めの乗り合いバスを使うのですが、そんな密着する状況でも不思議と嫌な思いをした記憶がありませんでした。


社会の最下層といわれるような人たちの家に泊めてもらう機会もたくさんありました。
家の中はこざっぱりとして(というか物がないのですが)、常に砂ぼこりが掃き清められていて正直私の家より掃除が行き届いている家庭ばかりでした。


貧しさはどこで感じたかというと、やはり購買力でした。
現金収入が少ない最下層の人たちの家に行くと、調味料でさえも買い置きがありません。
その日に使う塩ひとさじ分や米を、そのつど買う生活なのです。
たとえ漁師でも、家族数人で中ぐらいの魚一匹を分け合って食べていました。おかずはそれだけです。それでも、客の私のために贅沢をしてくれたようです。


誰が多国籍企業の販売促進に踊らされて粉ミルクを買い、不潔な調乳で子どもを感染症で失ったのでしょうか。
実際に、そういう事実もまたあったのだろうと思います。
でも塩さえまとめて買うことのできないような状況の人たちでないことは確かだと思います。


私たちは、本当に途上国の女性や子どもの状況を知らないということはラファエル氏が指摘している通りだと思います。


<誰がキャンペーンを支持したのか>


ラファエル氏はどんな人たちがどのような思惑で、このキャンペーンを支持、というよりも巻き込まれていったかを指摘しています。


役人たちは至るところで母親と子どもを守って欲しいと頼まれる始末で、誰も食糧政策にまつわる問題の複雑さなど考えようともしませんでした。

この母子擁護運動は、いろんな所のいろんな階層の人に支持されました。

欧米の医師や欧米で学んだことのある医師、小児科医、栄養士などこぞって関心を寄せました。

政治家には、母乳哺育の問題を選挙の地盤拡大に利用しようと企業寄りになる者もいれば、植民地反対・産業反対者として自らを打ち出す人もいました。

大学では、私も含めて、保健に関する調査のこの新しい分野は新たな予算を獲得する大いなる可能性を持っているため、これで低迷している調査部門を生き返らせることができるのではないかと、非常な関心をもって臨んでいました。

国連の職員は世界の人々の健康を目指すのがその役目ですので、責任を感じていました。

教会を代表して布教している人々は、かねてより何とか財界人の考えを変えたいと努力しているものですから、母乳哺育の問題が起きた時、これは多勢の人としかもトップ、あるいはそれに近い人と会えるチャンスだと思いましたがその通りでした。


このようなさまざまな思惑や利害関係をバネにして、1981年、WHOの「母乳代替品の販売に関する国際基準」が採択されます。


ますます粉ミルクと製造する企業への批判が強まっていきました。
次回はその「母乳ーミルク論争」が母親たちのためになったのか、ラファエル氏の思いを紹介します。


<おまけ>


ラファエル氏が誰がどのような理由で母乳哺育推進運動にかかわっていったのか書いた部分を読んで、私自身が海外医療援助への熱が冷めていった理由を思い出しました。


80年代初頭は、まだまだ日本の海外援助団体もでき始めた時期でした。
欧米のNGO(非政府組織)の行動力に圧倒され、欧米に追いつけとばかりに援助先を探し相手国政府と交渉し、日本政府や企業から資金を調達する、そしてまた活動範囲を広げていく、そんな雰囲気でした。
援助団体の活動を足がかりに国連機関への就職・転職を目指したり、マスメディアから取材され名声を得ていくことが目的のような人もいました。


多国籍企業による途上国の開発と搾取、それが生み出す貧困や人権侵害に反対行動をとっているはずの援助団体が、結局は、援助社会の中で自分のプロジェクトを拡大し援助をすることで生き続けるという矛盾を感じてしまいました。


あれから四半世紀、やっと青臭さから卒業できた私が出会ったニセ科学の議論の中での「善意と正義感」には、おおいにどきりとさせられました。
善意ほどやっかいなものはない。正義感ほどやっかいなものもない。
国際的な母乳哺育推進運動に感じる違和感は、そのあたりかなと思っています。




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