完全母乳という言葉を問い直す 19 <忘れてはいけないこと>

世の中には、人工栄養で子どもを育てることを選択されるかたがいらっしゃいます。


<母乳が感染経路となる疾患>


1980年代半ばにAIDSというウィルス感染による疾患が明らかになってきました。
感染した時点では症状もなく何年か経て免疫不全の状態に陥るというウィルス疾患があるということに、私自身が学んできた病気に対する認識を大きく変えさせられるほど恐怖心を持ちました。


その頃、ウィルス疾患について次々と新しい知識が増えました。
HTLV-1(成人T細胞白血病)という母乳を介して感染し、その子どもが成人し中年になる頃に発症する疾患があるということが明らかになったのもその頃でした。


1990年頃に私が勤務していた病院ではすでに全員の妊婦さんにスクリーニング検査をしていました。
最近では短期間の直接授乳や冷凍母乳をあげる選択も出てきましたが、当時は出産直後からの断乳が勧められました。


妊娠・出産という人生の中でも最も希望と喜びに満ちた時間のはずが、なんと残酷な宣告でしょうか。
妊娠中、何度も涙を流しながらお母さんは自身がキャリアであることを悩み自分を責め、またわが子が将来白血病になる可能性という恐怖と戦い続けるのですから。


当時すでにミルクを足さずに母乳中心の自律授乳を取りいれていた病院で年間一人いるかいないかぐらいの割合でしたから、周囲をみてもミルクを飲ませているひとがいない授乳時間というのはお母さんにとってどんなにつらい時間だったことでしょう。


出産したらおっぱいをあげて・・・誰もがイメージしていた母としての役割を全うできない悲しみと、赤ちゃんが泣いていてもおっぱいを吸わせてあやすこともできないせつなさ。
ミルクだけで育てることが子どもに感染させない唯一の方法なのだと納得してお産を迎えたお母さんたちも、実際に他のお母さんたちが授乳している姿に心は何度も揺れたことでしょう。


あの頃の私は、目を赤くしているそんなお母さんの肩を抱いて一緒にいることしかできませんでした。



<お母さんの体調のためにミルクを選択>


出産時の出血で周産期センターのICUに搬送し、お母さんの命が危ない状況にあった方のことを、2012-02-01 - ふぃっしゅ in the waterで書きました。


お母さんの意識が戻ったという喜びの連絡とともに、周産期センター助産師さんがお母さんの初乳を搾ってくださったものが、うちのクリニックでお預かりしていた赤ちゃんのもとに届きました。
搾乳用の注射器の先端に本当に涙ほどの初乳でしたが、赤ちゃんにはきっとうれしいプレゼントだったことでしょう。


その後、周産期センターのスタッフの方の手厚い治療とケアのおかげで1ヶ月ほどで退院できました。
できれば母乳も少しでも続けられるようにとスタッフの方も頑張ってくださったようですが、母乳は出ませんでした。
赤ちゃんにとっては、あの時の1滴の初乳が最初で最後の母乳でした。
生きるか死ぬかという時には、まず自分の体の生命を守ることが優先されるということなのかもしれません。


何ヶ月かして、立派に育った赤ちゃんを連れてお母さんが元気な姿を見せてくださった時には涙、涙の再会でした。


わずか半世紀前の日本では、年間2000人近いお母さんが出産で亡くなっていました。
分娩時の出血は今でも産科関係者にとっては怖い異常なのですが、その頃は産後出血でいわゆる産後の肥立ちが悪いお母さんはどれほどいたことでしょう。
母乳という生きるための栄養源を立たれた赤ちゃんたちにとって、本当にミルクは福音だったと思います。


最近では分娩・産後に血圧が上昇する方や、もともとうつ病など精神的疾患を合併したかたの妊娠も増えました。
お母さんの体調を優先して、十分に休息をとることで、産後の一番心身に負担のかかる時期をうまく乗り越えることができます。
こういう方にとってもミルクは必要です。


<母乳をやめるという選択をする方>


以前、日本人と結婚した西欧の方で出産直後からすぐに断乳してミルクを希望される方がいました。
母乳の利点も母乳をあげなかった場合のリスクも理解した上で、「でも私は母乳はあげません」とおっしゃるのです。
どのような背景があってそういう選択になったのか知りたい気持ちもありましたが、彼女からは「私が決めた選択に人がとやかくいう必要はない」という雰囲気が感じられました。


入院中も、他のお母さんたちとも打ち解けていて、とくに授乳方法の違いでお互いに遠慮している様子もなく過ごされていました。
それは潔いといってよいほどのこだわりのなさでした。


2年ほどたって、二人目の出産でまたお会いしました。上のお子さんも連れて、すっかりベテランのお母さんでした。
そして今回も出産直後から母乳を止める薬を飲みました。


中には、母乳を吸われる不快感や苦痛を持っていらっしゃる方がいます。
そういうことを言えばまるで母親失格のように受け止められることがわかっているので、なかなか口に出せないことでしょう。


その不快感や苦痛がなぜあるのか、ご本人自身がまだ表現しきれない思いがあるのだと思います。
周産期関係者はすべてのお母さんを対象にしているのですから、数の上では少ないかもしれないけれどこうしたお母さんたちの気持ちや背景についても理解しようとする姿勢が必要ではないでしょうか?


「完全母乳」という表現は、ミルクを選択したお母さんたちの存在もさまざまな背景も認めていないかのような非寛容な表現だと私は思うのです。




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