助産師だけでお産を扱うということ 3 <産婆から助産婦へ、終戦後の離島での出産の医療化>

前回は1930年代頃の信州で、近代産婆が村の出産に医療を引き入れる過程での苦労について書きました。


今回は終戦後、1948年(昭和23)に保健婦助産婦看護婦法によって産婆から助産婦へ名称が変った時代あたりについて、いままで参考にしてきたいくつかの文献から当時の助産婦がどのように働いていたかを紹介してみようと思います。


伊吹島での『出産の医療化』>


伏見裕子(ゆうこ)氏の「産屋と医療ー香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリーー」(『女性学年報 第31号と 2010』、日本女性学研究会)の中で、終戦直後に伊吹島助産婦として赴任、開業されたNさんの聞き語りがあります。


伊吹島はそれまでは無資格のトリアゲバアサンが自宅で分娩介助し、出産翌日に坂道を歩いてデービヤという産屋(うぶや)に移り、産後1ヶ月間を過ごすという風習のある島でした。


有資格者の助産婦はNさんが初めてで、Nさんの苦労話は「医療介入とは 57<近代産婆と急がせないお産>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121206の中でも紹介しました。
早くからいきませるお産を変えるのも大変だったようで、「分娩時間が長引くと、親類が勝手にトリアゲバアサンを呼んでくることもあったそうである」(p.106)というように、医療あるいは医学的対応よりも無資格者の昔ながらの方法が信頼されている様子が書かれています。


そのような島の状況で、Nさんが出産中の異常時にどのように医師へつないでいったか、少し長くなりますが引用します。

『出産の医療化』
 出産の介助を行う際、Nさんは、産婦に浣腸をし、必要に応じて導尿をした。分娩姿勢は仰臥位で、分娩器(*)を使って産ませたが、仰臥位を嫌がる場合は産婦の好きな姿勢で産ませることもあったようである。Nさんは、聴診器やトラウベで胎児心音を確認し、排臨時は肛門を押さえて、発露するとタオルで会陰を温めて会陰保護を行った。保護しても裂傷になることはあったし、どうしても出ないときは会陰切開を行うこともあった。裂傷や切開となった場合は縫合する必要があるが、縫合は助産婦には認められていなかったため、翌日に観音寺の医師の診察を受けるように勧め、Nさんが付き添うこともあった。
しかし、仕方なくNさんが縫合することもあったようだ。過去にトリアゲバーサンに取り上げてもらった経産婦の中にはひどい会陰裂傷が縫合されず裂けたままになっている人もいたそうである。


 陣痛がなかなか進まない時は、子宮口を開く器具を使って誘導したり、陣痛促進剤を投与することもあった。しかし、微弱陣痛で観音寺のK医院に連絡したものの、医師が到着するまでに胎児が死亡した例もあったそうである。海を渡るには時間がかかるため、Nさんは早めに医師を呼ぶように努めていたが、医師が間に合わなかった場合はNさんが悪く言われることもあり、非常に辛い思いをしたとのことである。


 また赤ちゃんがなかなか出ない時は、鉗子(かんし)をかける必要があるため医師を呼んだが、Nさんが仕方なく鉗子をかけることもあったようである胎盤が出にくい時は、手で軽く触れて剥離することもあった。無事胎盤が娩出されると、お腹を軽く縛って子宮収縮剤を注射し、お腹の上に冷やしたタオルを置いた。臍帯は、コッヘル(止血鉗子)や臍帯結紮(けっさつ)糸、クーパー(臍帯剪刀 せんとう)を使って切断した。


 赤ちゃんが羊水を飲んでしまった場合には気管カテーテルを使って処置を行い、泣かない場合は赤ちゃんの足を持ち、叩いて蘇生させたそうである。逆子や双子も取り上げることはあったが、できる限り病院で産むように勧めていた。妊娠中に逆子が判った時は、外回転術をして腹帯で固定するようにしたが、治る場合も治らない場合もあった。(p.108)


(*)産婦の足を固定し、自身に引っ張らせていきませるベルトのようなもの。

離島という特殊な環境であったとはいえ、Nさんが医療行為を行っていたことに驚かれるかたもいると思います。


けれども、Nさんがけっして「医師がいなくても私(助産婦)だけでこれだけの医療行為をできる」とは思っていなかったことも書かれています。

このように、Nさんは最新の医療技術や器具を用いた出産介助を行っていた。しかし縫合や鉗子など、本来助産婦に許されていない処置を行うのはNさんにとって大きなストレスであり、そうした道具は1967年に島を離れる時に処分したとのことである。


またNさん自身が島で出産し、一命を取りとめた経験があることが書かれています。

Nさんは1954年に自宅で第二子を出産した。この時も介助したのはIさんで、デービヤは使用しなかった。お産そのものは軽かったが、胎盤が残留していたのか、産後十日ほどして大出血を起こして意識を失った。父が自宅の薬屋にあった強心剤を注射し、翌朝A産婦人科を受診して一命を取り留めたそうだ。

Iさんというのは、同じ伊吹島でNさんにつづいて開業した助産婦さんです。


<島民にとって出産の医療化はどのように写ったのか>


Nさんが島に赴任する以前から保健婦Hさんがデービヤへ母子の訪問をしていた様子も書かれています。

保健婦の仕事である「赤ちゃんの訪問」のためにデービヤで静養中の母子を訪問するのは日常的であったそうだ。その際、褥婦が「イリコと味噌だけ」の食事を摂っているのを見て栄養状態を心配し、もっといろんなものを食べるようアドバイスしたが、伊吹島出身でないHさんの言い分はなかなか通らなかったそうである。


「まだ二十代の若い助産婦のいうことなんて、最初は聞いてくれなかった」(p.106)というNさんを島民が受け入れていったのは、おそらく医学に基づいた助産を行い、適切に判断し対応し医師を呼ぶことで確実に助かる母子を目の当たりにしたからではないでしょうか。


保健婦Hさんの栄養のアドバイスは目に見える効果がわかりにくいのに比べ、出産場面での医療の効果はそれまでのトリアゲバーサンの経験だけに頼った介助や、難産の時には呪術的なことに頼るしかなかった島の出産にNさんが医療という新しい風を送りこんだといえるでしょう。


当時は逆子や双子も出産時に気づくのは珍しいことではなかったと思います。
定期妊婦健診と経膣エコーや経腹エコーの診断がようやく定着した十数年まえの日本の医療レベルでも、まだ出産時に「双子だった」とわかることはたまにあったようですから。


ですから1940〜50年代に、妊娠中に逆子や骨盤位に医学的に対応でき病院での出産を勧めることができたNさんというのは、産科学に基づいた助産をきちんと行っていたということであり、こういうところからも「医療を使わないで出産介助するのが助産婦」という認識とは全く違うのではないかと思うのです。


医療の恩恵を知った島民が「医師が間に合わなかった場合はNさんが悪く言われる」ほどに変っていくのは、Nさんにとって皮肉なものであったことでしょう。


でもそれは、やはり人々が本当は医療を必要としていたということだったといえるのではないでしょうか。




助産師だけでお産を扱うということ」のまとめは「助産師の歴史」にあります。