産後ケアとは何か 11 <母子健康センターの変遷と資料>

出産の医療化の流れの中で、1950年代に有床助産所とともに母子健康センターが作られたことで、産後の休養という点では大きな転換期になったのではないかと思います。


こちらの記事では、母子健康センターの主に助産部門、分娩を取り扱う部門について書きました。
その小見出しには<母子保健センター>という表現を使ってありますが、現在に至るまで、母子健康センターはその根拠になる法律の変化とともに役割が変化しています。


今回からしばらくは、この母子健康センターについて考えてみようと思います。


<母子健康センターの変遷>


私の助産婦学校時代の教科書「母子保健ノート2 助産学」(日本看護協会出版会、1987年)には、「母子保健センターの変遷と助産婦業務」について書かれています。
そこから紹介してみようと思います。

母子健康センターは、昭和33年児童福祉施設として(昭和40年母子保健法の成立により、母子保健施設となる)、母子保健の遅れている農林漁業地域を対象に、市町村母子保健活動の拠点として発足した。

こちらの記事で1924(大正14)年に児童の権利に関するジュネーブ宣言が出され、1947(昭和22)年に日本でも児童福祉法ができたことを書きました。

 昭和30年頃の農林漁業地域では、不衛生な無介助分娩、自宅分娩が多く(30年、郡部の無介助分娩7.5%、施設外分娩93.4%)、これが母子保健政策上の大きな問題となっていた。このため助産部門に重点がおかれ、センターは公的な助産場所として助産婦が管理者となり、適正な分娩施設となって各地で非常に歓迎され活用された。


後で紹介する資料では、1960年代頃までの日本では地域によっては妊娠中毒症(現在の妊娠高血圧症候群)が30〜40%であったことも書かれています。


まだ「母子保健」という言葉が社会に認知される以前には、児童福祉という法律でしかその状況に介入できなかったのかもしれません。

 昭和40年頃から助産部門に対する産婦人科医からの非難や、嘱託医との助産上のトラブルなど、医療施設との関係が問題となり、昭和42年「母子健康センター設置要綱」が大幅に改訂され、保健指導を主とし、助産は付帯事業とするよう重点の置き方が変わった。

1958(昭和33)年に児童福祉法の元に作られ始めた母子健康センターですが、1965(昭和40)年には母子保健法による施設になります。
わずか10年ほどで母子健康センターの業務は保健指導へと重点が置き換わり、さらに1973(昭和53)年には厚生省が「国民の生涯を通じる健康づくりの基盤整備対策として、市町村保健センターの設置を進める」ようになります。
それまで「保健所」という名称であったものが、母子健康センターの保健指導の機能を含む「保健センター」へと呼び名が変化しました。


wikipediaには「母子保健センター」についての説明が、以下のように書かれています。

母子保健センターは、妊娠中の女子の栄養指導や新生児の育児指導、離乳食指導、予防接種、定期検診などを行う場所。
発達の遅れ、低出生体重児など特殊な育児相談にも応じている。

現在は、さらに虐待予防の視点も重要になっています。


半世紀ほど前に農林漁村の母子保健向上のために始まった母子健康センターですが、社会の要請にあわせてその機能が大きく変化してきたことがわかります。


<いくつかの資料紹介>


母子健康センターについて検索しているうちに見つけたものをいくつかご紹介します。


「厚生白書(昭和41年度版)」の「第8章 第2節 2 母子保健制度の概要」では、母子保健法に変わったあとの母子健康センターの事業内容について書かれています。
(直接リンクできないので、「母子健康センター」「厚生白書」で検索されると見つかるとおもいます)


関東連合産婦人科学会誌 第39回学術集会(昭和44年6月8日)には、「母子健康センターの現状と問題点」(p.87)が掲載されています。
(左端の「しおり」の「p.85 パネルディスカッション3産婦人科診療あり方の模索」から見られます)


その中には「助産部門には産科医の嘱託医が望ましい」という点もあげられています。医療法ではなく児童福祉法に基づく施設の中での「助産」は、まだ当時は医療であって医療ではないグレーゾンに位置していたと解釈できるかもしれません。


また分娩料や使用料について、「各市町村で格差が大きい」ことが問題点としてあげられています。


その点について1971(昭和46)年の静岡県富士市「広報ふじ」の、「母子センターの使用料が変わる」という記事が少し参考になるかもしれません。


「7日分のもく浴料を含んだ分娩料は6000円が8000円になりました。」とあります。大幅な値上げですが、分娩と1週間の入所費を合わせてですから現在と比較すれば相当低額だといえるでしょう。
ただ食費に関しては「1日350円から450円になりました」とあり、これは分娩・入所費に比較すると高いように感じます。
昨日の記事で紹介したような「母子健康センターでは家族が食事を運んでいた時代」から、もしかしたら給食を行う時代になったということでしょうか。ただし、医療機関ではないので、自費でまかなっていたのかもしれません。


「みやざきの101人」というサイトで、母子施設設立に貢献したとして酒井ハル氏の記事があります。
(こちらも直接リンクできないので、上記名で検索してみてください)


その酒井ハル氏の「安全で衛生的な助産方法の普及努めることが、第一の仕事であった」「妊婦の養生には厳しかった」という言葉が残されています。

センター設立以前は、ほとんどが自宅分娩であったが、1967(昭和42)年の設立後はほとんどの妊婦はこのセンターに入院し、適切な処置のもとに安心して出産を行うことができた。

しかし、昭和50年代になると、保険制度の充実で専門病院でのお産が多くなってきた。1982(昭和57)年には設立当時の5%の利用しかなくなったため、県の承認を受けて翌年3月をもって休止した。

冒頭の教科書には母子健康センターの年間分娩数が書かれていますが、「年間50〜99件」が最も多く、昭和53年までに全国に設置された677箇所の母子健康センターのうちのおよそ30%をしめています。
月に数件の分娩を請け負っていたセンターが多かったようです。


母子健康センターが設置されて20年ほどすでにその役割を終えつつあった背景には、より多くの分娩をより安全に請け負える医療施設の急増があります。


それは分娩の安全だけでなく、「入院」という形で日本の全ての産婦さんに産後の休養をとれる体勢になったといえるのかもしれません。


次回からは、もう少し具体的に地方の母子健康センターについて書かれた資料を紹介しようと思います。





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