今回は1975(昭和50)年に書かれた岩手県のへきち地域が抱える問題点についての資料を紹介したいと思います。
「母子健康センターのあり方」
(第二報)実態調査と指導効果 第一篇 母性保護の立場から
昭和30年代から50年代までの、日本の医療格差とその改善のための努力の様子をうかがい知ることができる貴重な報告書ではないかと思います。
<母子健康センターからの移送と背景>
驚くのは、「後期妊娠中毒症(現、妊娠高血圧症候群)」の割合の高さです。
へき地地域(岩泉町)の中毒症発生率はかつては約20〜30%に認められたが、ここ10数年の間に今回のセンターにおける妊産婦検診の成績では11.8%と減少し、かつ重症例も少なくなってきていることは、当地域の保健指導関係者の努力と、異常が早期に認められた場合には直ちに嘱託医の指示で隣接の病院に移送されているためと思われる。
一方農村地域(胆沢町)では数年来中毒症の発症が多く、今回の調査でもセンター受診者の35.3%に中毒様症状が認められ、かつ中等度の病型を示すものが多く、今後さらに追求する必要がある。
1970年代の日本でもなお、いかに農村あるいはへき地と言われた地域の女性が過酷な労働を強いられていたり、妊娠・出産時に「休養をとる」ことが難しいなど衛生状態が悪い状況であったかを推測できる数値ではないでしょうか。
1975(昭和50)年当時、岩手県内の母子健康センターの状況は以下のように書かれています。
県内31カ所の助産施設としてのセンターの利用状況は既に数箇所で助産部門を廃止し、他のセンターでも2〜3を除き入所者は減少傾向にあり、表2に示す如く今回の調査対象4地区についても、胆沢町を除き、他は減少傾向にある。
(中略)
この表からは一定の傾向は覗えないが、たまたま平均措置率の比較的高率の浄法寺町センター、胆沢町センターは共に病院が隣接しているものの産婦人科医が常在せず、これに対し岩泉町センター、石鳥谷町センターは隣接して病院があり、かつ産婦人科医が常在している環境である。
措置というのは前回書いたように、経済的理由で入所助産を受けられない妊婦を児童福祉法によって公費で費用を負担するものです。
経済的困窮と産科医不在の地域では異常率が高くなり、助産婦のみの母子健康センターから病院へと搬送する頻度が高いということのようです。
<へき地地域での母子保健啓蒙活動>
同じ岩手県内でも、地域により状況や問題点がかなり異なるようです。
「岩手県でも最も民度の低い、社会文化的にも隔絶された町でもある」岩泉町の状況にかなりの割合をさいて報告が書かれています。
20年近く、この地域には重点的に啓蒙活動が進められてきたようです。
(前略)昭和49年度は母子保健に関する地域啓蒙活動として部落講演、座談会と妊婦検診、および乳幼児検診に重点を置き、母子保健センターの意義をも浸透させる努力を行った。
その内容は、1.部落講演、座談会は医師(研究者畠山)、保健婦、栄養士、さらに保健課長を一組とする班を作り、毎月1回、部落に入り、主として夜、7時から10時まで栄養、育児、衛生、病気などについて講演し、その後、部落の人々と座講を行うもので、慣習的因習についても積極的意義を見出そうと努力を行っている。
これを読んで、かるくめまいがしています。
ちょうど私が看護学校進学を考え始めていた頃の話なのですが、私にとって日本の医療は先進国の医療であり、最先端の医療を行う大病院しか目に入っていなかったのです。
同じ時代に、日本はまだまだこんな状況があったのだと。
さて、こうした医療の知識と地域の慣習とに折り合いをつけながらの地道な努力の結果が見られたことが書かれています。
また、妊婦、乳幼児の各健診は山麓に点在する部落の妊婦、乳幼児を少なくとも年、最低3〜4回の受診を可能にするために毎月1〜2回、部落に入って行われている。
すでに38年までの報告で述べたごとく、乳児死亡率も岩手県平均に近づき、昭和50年16.1、周産期死亡率16.1、クル病は軽症例もほとんどなくなり、乳幼児の発育状態も県都盛岡市の発育と比較して劣らないほどに改善された。
それでもまだ「残された大きな1つの課題」として無介助分娩があげられています。
次回はその点についてみていこうと思います。
「産後ケアとは何か」まとめはこちら。