「産後ケアと出稼ぎ」
突拍子もない題名と感じられる方が多いことでしょう。
こちらの記事で岩手県の「母子健康センターのあり方」という資料を紹介しましたが、当時の女性をとりまく社会環境の変化についても書かれています。
岩手県の穀倉地帯であり、「誘致企業の進出の極めて著しいところ」にある胆沢母子健康センターの状況の中に以下の部分があります。
住民、とくに若妻達は競うように誘致工場に就労しているため(生活が貧困ななためではない)、育児は祖母の仕事として受け止められている。所得倍増、経済優先の志向が住民の心を占めており、この志向を一人一人の住民の健康増進に結びつけるためには関係者の一層の努力と長い年月が必要と思われる。
この地域では、母子保健についての講演会などへの関心の低さと、乳児健診の同伴者が母親は少なく「70%は祖母」であること、が問題点とされています。
この文章を読んで、私が1990年代から10年間行き来を続けた東南アジアのある地域の女性の出稼ぎについて思い出したのでした。
そして、現在の日本では「産後ケアと出稼ぎ」というあり得ないような問題ですが、世界のどこかには産後の女性が直面している地域もあるので少し書いてみたくなったのでした。
<出稼ぎとは>
Wikipediaの出稼ぎに以下のような説明があるように、日本ではどちらかというと男性の出稼ぎのほうが思い浮かぶかもしれません。
日本において出稼ぎは近代の昭和戦前期や昭和戦後の高度成長期(1970年代まで)に顕著で、主に東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が冬季などの農閑期に都市部や首都圏の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎにくることが多かった。
ところで、出稼ぎはスペイン語でDekasegiというのですね。へーへー。
日本語からスペイン語になったのでしょうか。「カローシ」のように。
でも、日本もかつては海外へも出稼ぎをしていた時代がありました。
そのひとつに、1901(明治34)年に始まったフィリピンのベンゲット道建設があります。
出稼ぎから移民となり、彼の地で生き延びていくためにベンゲット道は日本人の勤勉さの象徴であり誇りとして語り継がれることが多かったようです。
それに対して、別の角度から書かれた「『ベンゲット移民』の虚像と実像ー近代日本・東南アジア関係史の一考察」(早瀬晋三著、同文館出版、1989年)が参考になることでしょう。
さて、1970年代から80年代には日本への海外からの出稼ぎが増えましたが、ジャパゆきさんという言葉が生まれたほど女性の割合が高いものでした。
こうした東南アジアから海外に出稼ぎに行く女性の地域も背景もさまざまですが、共通したことがあります。
それは出産・育児をする年代の女性ということです。
次回は、私がしばらく行き来していた地域で見聞きしたそんな女性たちのことを書いてみようと思います。