端境期のオクラを日本へ輸出する人たち

前回の記事で紹介した「先達の遺産ー『オクラ』もフィリピン産」というナビ・マニラの記事に、オクラを輸出し始めた方の苦労が書かれていました。


開発スタート時には今だから話せる悲しい笑い話があった。許容差に入らない大きいものはナイフで切って袋詰めにして輸出し、大クレームが発生した。農場にクレームをつけても長さが7センチというだけで「切ってはダメ」とはどこにも書いていない。切ってダメならそのように注意書に書くべきだという言い分だった。結局、日本人輸出業者の損失・授業料となってしまった。

このオクラの開発は今もマニラ在住の日本人T氏の思い切った作戦が成功した。もっとも今では少々伸びすぎて大きくなったものはローカル市場で結構売れるようになってきたから、昔のように心配はいらないという。何と言っても早朝陽が上がればすぐに2-3センチは伸びてしまうらしいから品質管理は難儀だ。

農産物の開発スタートは誰が初期リスクを負うかで決まる。食べ物はそれほど難しい。


わあ、オクラってそんなに収穫のタイミングが難しいのですね。
国内の農家の方々も、同様に大変なのでしょう。
あの緑のネット内に整然と同じサイズのオクラを詰めるために。


私が住んでいた地域でも、日本の端境期向けのある野菜が地元の市場に出回るようになりました。


その野菜栽培へと転換した農家を訪ねて話を聞いたことがあります。
やはりサイズをそろえることは相当厳しい注文があったそうです。
「同じ野菜で、食べるのには何も問題なくおいしいのに、何故日本人はたった1センチや2センチの違いで買ってくれないのか」という苦情を、何人からも言われました。


それは輸出向けにはねられたエビについても言われました。
「なぜ同じおいしいエビなのに、少し大きさがそろわないだけで買ってもらえないのか」と。


地元の市場で売られていたその野菜をみると、日本人の私なら「そろっていない」ことの意味がわかるだけに、「本当にごめんなさい」としか言いようがない気持ちでした。
市場の無造作に積まれている他の野菜に比べると、そのはねられた野菜は几帳面すぎるほどそろっていて、しかもテープで束ねられているのですけれど。


外から見ると「異常なほどのサイズのこだわり」に見えるのですが、帰国するとまたその異常さを感じなくなってしまうほど、すべてに正確性が必要な社会に自分が適応していくしかないのですね。


<日本へ輸出を始めるきっかけは何か>


私が住んでいた地域はアメリカの会社が日本向けにすでに果物や花を輸出していましたので、その端境期向けの野菜もアメリカ資本でした。


詳しいデーターはもう手元にないのですが、1990年代ごろからスーパーの店頭などで花が安く購入できるようになりましたが、それもこうした海外からの花の輸入が増えたこともあるようです。


さて冒頭の文章を読んで、この輸出を始めたのはフィリピンに住む日系人の方ではないかという印象を受けました。あくまでも印象の話です。


というのも、もし日本人であれば最初から「サイズを徹底的に揃えないと商品として認められないリスク」を理解しているのではないかと思います。


冒頭の文章では、輸入する日本の会社側とフィリピンの生産者に板挟みになった立場があらわれていて、きっと日系人なのだろうと感じました。


フィリピンにはこちらの記事で紹介したように1世紀前にベンゲット移民と呼ばれる人たちの子孫や、第二次大戦後にそのままフィリピンに残った日本人の子孫の人たちがいます。


あるいはフィリピンに限らず東南アジアや南アジア、あるいは中南米にも出稼ぎや移民として日系人はたくさんいらっしゃいます。


私が住んでいた地域でも、現地の人と日系人の間に生まれた方がいらっしゃってお話を伺う機会がありました。1990年代当時60代ぐらいの方でした。
1970年代ぐらいまでは、太平洋戦争の影響もあって日系人は身を隠すように生活をしなければならなかったそうです。


中国残留孤児の状況と似ていて、「日本人は日本に帰れ」と言われ、でも日本に帰るすべもなく、その国で生きて行くしかなかったのでした。


1980年代ごろから日本が経済的に豊かになったことで、多少日本語ができるその人は日本向けのビジネスを始めるようになりました。


少女たちに日本語を教え始めたそうです。
「日本は高齢化社会で、これから絶対に海外からのヘルパーを受け入れるようになるはず」と。


たしかにその後、フィリピンなどの国からの介護職を受け入れ始めましたから、彼は先見の明があったのかもしれません。
でも日本に一度もいったことがないまま、日本で海外からのヘルパーがどのような条件で働くことになるかも想像がつかなかったのではないかと思います。


唐突な話ですが、オクラを輸出し始めたときの苦労話を読んで、私はそのことを思い出しました。


もう少し、オクラの話が続きます。