自律授乳のあれこれ 10 <「新生児看護の本質」が明文化された時代>

少し間があいてしまいましたが、「自律授乳のあれこれ」の続きです。
助産師が新生児を継続的に観察する時代に入ったのは1960年代であることを考えると、初産と経産の会陰裂傷の頻度さえまだ自分達の経験をきちんと数値化できずに、前回の記事のように「玄米で切れない」なんて前近代的な発言が出てくるのも仕方がない集団なのかもしれません。



さて、明治時代に産婆教育が始って、1960年代頃までのおもに自宅に赴いて分娩介助していた産婆・助産婦が、新生児についてどのような教育を受けていたのかは、私は資料をもっていないのでよくわかりません。


ただ、出生直後からずっと新生児を観察し続けるという経験をほとんどの看護職が持っていなかった時代であることを考えれば、体重の増え方や黄疸ぐらいしか当時は経験知がなかったのではないかと推測しています。


それがわずか20年ほどで、1980年代終わり頃には以下のような「新生児看護の本質」ともいえる内容を、助産師教育課程で教えられるまでになりました。

 出生まで、まったく母体に生命を依存して成長発達してきた胎児は、分娩という経過を経て、一人の人間としての生活を開始する。この期の新生児にとって、分娩によるストレスからの回復、子宮外生活への適応、将来に向っての成長発達等、その負担は大きい。そのうえ新生児の中には、機能に欠陥を持って生まれた新生児もおり、その生命は、いっそうの危険にさらされている。これら新生児に、妊娠、分娩経過を通しておこる健康上の問題を予測しつつ、出生後の経過を観察し、日々刻々と変化する状況に適応したケアを行うことは重要である。

「出生後の経過を観察し、日々刻々と変化する状況に応じたケア」
現代の周産期医療では当然すぎる内容ですが、こうした本質的な部分が明文化されて、まだ半世紀しかたっていないわけです。


それでも、まだこの時代は無事に生き延びさせることが最優先課題だったので、異常の早期発見のための観察ポイントが優先されたのはしかたがなかったのかもしれません。


<新生児の「行動」が観察され始めた時代へ>


1980年代終わりのころのその教科書には、観察をもとに新生児ひとりひとりに個性があることが書かれています。

i. 啼泣


 音調や、音の高低、回数、持続期間、強さに注意する。一般に外部から刺激を受けて行動を阻止されると泣きだすが、その泣き声は中程度の音調を高さで、刺激が遠ざかり一人で放置されると静かになる。
(中略)
新生児の行動を観察していると、その個性ある行動に気づく。個性ある人間として、環境の変化に対応する有効な反応を測定すれば、母子関係をはじめ新生児と他との相互関係能力を評価したり、その感覚能力を知ることができる。

前半の文章に関しては、「赤ちゃんの眠りと行動1」に書いたように、外部からの刺激に反応するというようりも、むしろ体内で起きる変化や危険を知らせようとしたり、それを察知する側のアンテナが向いていない時に啼いて知らせる「置き去り防止センサー」のようなものではないかと私は思います。


ただいずれにしても、新生児の行動が少しずつ観察されて、新生児とは他者との関係を築いている者であり、私たちはそうした対象を相手にしていることを認識する時代に入ったのが1970〜80年代でした。


<「母子相互作用」が否定され始めた時代だったのかもしれない>


この時代の背景には、「母子相互作用」とか「母と子のきずな」が大きく影響していました。
こちらの記事で紹介した論文で「子どもをめぐる社会問題」が母親像の欠如に起因しているのではないかという仮説も、この母子相互作用の考えが根底にあるのだと思います。


ところが、1970年代終わり頃に看護学校の授業で学んだ「母子相互作用」という表現が、この1980年代終わりごろの助産婦学校の教科書では一度も使われていないことに、今気づきました。


もしかしたら、「母子相互作用」はひとつの仮説にすぎなかったという反証の時代を経て、もっと新生児の行動を母親だけでなく「人と関わりあう存在」として見ていこうという時代に移っていたのかもしれません。


それをまた「母子」の関係に引き戻してしまったのが、母乳育児推進運動や自然なお産の流れだったのではないかと。


看護・助産系の研究や論文では、今もまだ「母子相互作用」や「母と子のきずな」という表現が好まれているような印象を受けます。


新生児の「自律」が、いまだにまだ授乳という狭められた範囲でしか意識されていないのは、そういうことも関係があるかもしれません。