境界線のあれこれ 26  <家族による看護と専門職による看護>

小さなこどもたち、特に女の子の将来なりたい職業ランキングの上位に必ず入ってくる看護師ですが、みなどんなイメージがあってそのイメージはいつ頃からつくられたのでしょうか。


私が小学生だった1960年代には、すでに「将来は看護婦さんになりたい」と答える人が多かったと記憶しています。
え、私ですか?
私は仏教に熱心だった父の影響で幼稚園のころからお経を覚えさせられていたので、「将来は尼さんになりたい」と答えて周りをドン引かせていました。


それはともかく、こちらの記事で紹介した「看護管理50年の歩みとこれからの方向」(草刈淳子氏、日本看護研究会雑誌、2001年)の中に興味深い話がありました。


「看護管理の発展経緯」の「第1期後期(1952-1960)」(p.23)の以下の部分です。

昭和25年に発足した完全看護は、昭和33年には「基準看護」として、給食・寝具とともに健康保険医療の標準的入院サービスに位置づけられ、日本人も入院時に煮炊き用の鍋、釜、七輪他、布団一式をリヤカーで運び込む姿からようやく解放された。

私が生まれる少し前までの1950年代までの日本というのは、病院に入院することは食事や身の回りの世話をする家族の手が必要だったといういうことです。


私たち世代が思い描く看護職というのは、現代の子どもたちとはそう違わないと思っていましたが、案外この1950年代から60年代より後に作られていった新しいイメージなのかもしれません。


<病院の中の家族による看護>


吉村昭氏三浦綾子氏の闘病記の中にも、昭和30年代初め頃までの入院生活を描いた部分がありました。


それぞれの家族が病院内で食事を作ったり持参したりする必要があり、入院することによる家族への負担を三浦綾子氏が心苦しく思っていたことも書かれていたと記憶しています。


「天使病院 100年史」を読むと、この1950年前後の病院の変化がイメージできるかもしれません。

看護婦も患者のベッドメーキングや清拭などを行うようになり、一段と手厚い看護を行い、清拭も「自分を謙虚にして看護に当たる愛の心」の現われであったが、これらによって天使病院の看護は従来にも増して愛にあふれ入院患者に深く感謝された。

1970年代終わり頃に看護学校に入学した時にはそういう時代はかなり昔のことのように感じるほど、「医療上の目的によって身の回りの世話と看護を看護師が行う」基準看護を前提にした教育を受けていましたし、卒後に働き始めた病院では現在と同じような看護師のみが入院中のケアをしていました。


1980年代後半に働いた民間病院では、付き添いさんと呼ばれる女性が患者さんのベッドの側に寝泊りしながら身の回りの世話をしていることがあって驚きました。
主に東北地方からの出稼ぎの女性でした。
その付き添い看護が全て禁止されたのが、1997年でした。


1950年代から私が看護学生になった1970年代後半のわずか20年程で、日本の病院の風景は全く様変わりしたといえるのかもしれません。


病院の中にも家族の看護があった。
というよりも、入院中も家族の手による看護が主だった時代がそう遠くない昔だったことにあらためて驚きます。


私たちの世代が思い浮かべる「看護婦さん」って、いったいどこから生まれたイメージだったのだろうと不思議に感じるのです。




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