世界はひろいな 8 <コーヒーの入れ方あれこれ>

お茶にもいろいろな入れ方があります。
1960年代、私自身が幼児から小学生だった頃の記憶として、普通に緑茶を急須で入れる他、夏には麦茶をヤカンで煮出す方法もありました。
また、母が茶道を習ったことがあるので時に抹茶をたてるという風流なことを自宅ですることがありました。


コーヒーよりは先に、紅茶のティーバックのほうが、家ではよく飲んでいた記憶もあります。
その後、「相棒」の杉下右京氏のように、紅茶も缶に入った茶葉をティーポットで「正しく」入れることも流行り始めました。


緑茶や紅茶に比べて、喫茶店を除けば最初は粉末のコーヒーしかなかった時代から、ネルドリップ、サイホン、ペーパードリップ、そして最近ではエスプレッソを入れられる家庭用の機械まで、ほんとうに入れ方は多種多様ですね。


そして「こんな入れ方もあるのか」と、何度か驚かされることがありました。


エチオピアのコーヒー>


こちらの記事に書いたように、1980年代初めにエチオピアの大飢饉がありました。


当時、日本でも救援団体ができ始めて、現地の様子を報告会で伝えていました。
その中で、ある村でコーヒーセレモニーを受けた時のことを写真で見せてくれた方がいました。


リンク先のwikipediaにあるように、1時間半から2時間程度、コーヒーができあがるまで待つ話に、ペーパードリップでさえまどこっろしく感じることがある私にはとても印象深く残りました。



私もエチオピアであのコーヒーを飲んでみたいなと思ったのですが、派遣されたソマリアは国境を隔てた隣の国でしたが、コーヒーを入れる文化はなかったようで願いはかなわず帰国したのでした。


ベトナムコーヒー>


今でこそエスニック料理も海外の雑貨も珍しくなくなりましたが、1980年代は都内でもそういうものを扱っても商売にはならない時代でした。


1980年代半ばにインドシナ難民キャンプで働いた時、朝からベトナム料理三昧の日々であったことをこちらで書きました。


フォーというヌードルであったり、フランスパンのベトナムサンドイッチだったり、その日の気分でメニューを変えていましたが、毎日かかさず飲んでいたのがベトナムコーヒーでした。


最初はコンデンスミルクが底に沈んでいる甘いコーヒーが苦手でしたが、極暑の中で糖分を体が欲していたのか、しだいに病みつきになりました。


ただ、難民キャンプがあった国ではまだ生のコーヒー豆が少なく、インスタントコーヒーで入れられたベトナムコーヒーでした。


しばらくして日本にベトナムの雑貨を扱う店ができて、あの組み合わせ式フィルターを初めて見たのでした。


<ヤカンで煮出す、少数民族


ただ、その難民キャンプがあった国でも限られた地域で、国内産のコーヒー豆が手に入ることがありました。


標高の高い地域に住んでいる少数民族の人たちが栽培しているものが、時々、市場に出ることがありました。


ドリップ式のコーヒーに飢えていた外国人スタッフは、こぞって買いに出かけたのでした。
当時、一緒に暮らしていたアメリカ人の友人は、コーヒーフィルターを持参していました。フィルター部分が金でできているもので、これも今は日本でも珍しくはないのですが、当時ペーパーフィルターしかなかったので驚きました。


「金だと紙のにおいがつかない」「ペーパーレスでエコ」というのが理由だったようです。
私もそれ以来この金のフィルター一辺倒ですが、正直、味の違いがわかるほどの通でもないし、ペーパーフィルターのように補充忘れを気にしなくてよいというずぼらな理由です。


さて、その後1990年代に入って、その国のわずかなコーヒーを栽培している地域に友人ができて、行き来するようになりました。
少数民族と言われる人たちの地域です。


1週間、2週間と寝泊りさせてもらって、一緒に生活をさせてもらいました。


さすがにコーヒー豆の生産地であるだけに、コーヒーが生活の中にありました。


ヤカンに水と挽いたコーヒーを入れて、そのまま煮出す方法でした。


そのコーヒーと、サツマイモやバナナ、キャッサバをゆでたものが朝食でした。


コーヒーの入れ方は印象深く残ったのですが、残念ながらコーヒー豆をどうやって挽いていたのかは記憶に残っていません。
日本で簡単に手に入るようなコーヒーミルがあるわけではないので、石臼のようなもので挽いていたのでしょうか。


その地域に、私のコーヒーの木が一本あります。
私が帰国する前に、友人達が私の思い出にと植えてくれたのでした。
あの木はどうなっているでしょうか。


それにしても、コーヒーの楽しみ方は本当にいろいろありますね。




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