思い込みと妄想 6 <真実は権威とか権力から遠いところにあるのかもしれない>

20代の頃、前回の記事に書いたオープンカレッジで学んでいたときのことでした。
その講師が学内で何かの腕章を付けている学生に、「それは権力の象徴だ」と冗談ぽくですが言いました。


「権力の象徴」
それまで聞いた事も考えた事もない言葉で、以来、ずっと何かの拍子に思い出す言葉です。


<出産の場に医師がいるということ>


私がブログを書き始めた理由はこちらに書いたように、「医師のいない分娩場所をなくしたほうがよい」ことを伝えたかったからです。
出産時の異常というのは「搬送すれば大丈夫」という悠長なものではなく、判断や処置が1分2分と遅れるだけで産婦さんと赤ちゃんに致命的な危険がおこることがあります。


日本の母体死亡の低さや新生児死亡の低さは、その数字の裏に何百倍もの危機一髪で救命した命があったからにほかなりません。


胎児の心拍がガーッと下がると院内にいる産科医にすぐに報告するのですが、医師が来るまでに何をしても心拍が回復しない2〜3分間というのはこちらが生きた心地がしないものです。
無事に出産が終わってほっとしたのもつかの間、子宮の収縮が悪くなり出血と血の固まりがドッと出始めた時、産科医が来るまでの2〜3分がどれほど長く感じるか。


心の中で「目の前のお母さん、赤ちゃんがもしかしたらどうにかなるのでは。このまま亡くなるのでは」と恐怖に震えそうになるお産に、1年間でも何度も遭遇します。


今の勤務先は診療所ですから基本的にローリスク対象ですし、お産で入院したら分娩までずっと助産師・看護師がそばについてケアをしています。
助産所となんらかわらない「温かい」「寄り添った」お産です。


助産師・看護師がどんなに慎重に観察しケアをしても突発的に異常事態が起こるのが分娩です。
その異常にすぐに対応してくれる医師が出産の場にいつもいる、今の日本は人類がずっと求めてきた理想的な出産の場を手に入れたのだと痛感するこのごろです。


<「病院の出産(医師)VS助産所・自宅分娩(助産師)」にすり替えないで欲しい>


さて、冒頭の「権力」という言葉を何のために使ったかというと、研究者やジャーナリストなど物を書いて世の中に広げる力についてです。


昨年末から出産に関する本が2冊出版されています。

「出産環境の民俗学」
安井眞奈美著、昭和堂、2013年12月25日

「女性と出産の人類学  リプロダクションを問い直す」
松岡悦子著、世界思想社、2014年5月17日

出産に関する書籍はできるだけ購入しているのですが、以前に購入したまま、ざっと目を通してそのままになっています。


それぞれの内容紹介には以下のように書かれています。

「安全な出産」を支えるのは、誰か?
かつては自宅出産が当たり前、いまではほぼ99%が病院出産。ところが安全を求めた結果のはずの病院出産が危うくなっているのは、どうしたわけか。そもそも女性が求める出産とはどういうものか。これまで出産を支えてきた産婆・助産婦・助産師を軸に、この百年間の出産に関わる環境の変化を明らかにする。
(「出産環境の民俗学」)

女性の人生に大きな影響を及ぼす妊娠・出産。どの社会にも、産む女性に寄り添い、妊娠と出産を見守る産婆や助産師がいる。日本、アジア、ヨーロッパでの長年のフィールドワークから、女性が健康で満足できるお産のあり方を提唱する。
(「女性と出産の人類学 リプロダクションを問い直す」)

どちらの本も、30年ぐらい前からの「自然なお産」と変わりのない内容でなんら目新しい話はありません。


そして「病院(医師)の分娩VS助産所・自宅(助産師)の分娩」という構図を変えずに、自分たちの理想の出産や研究のために「助産師」に注目する。


周産期医療従事者の「お産は怖いよ」という経験に基づく真実には耳を傾けてもえらずに、自分の主張したい方向に研究を進め、それを学問として書籍に残していく。


これからも出産に焦点をあてた研究では、こうした本を参考書籍として多くの人が手に取ることでしょう。


歯がゆい思いです。


これを「権力」あるいは「権威」だと私は感じてしまうのです。


医師もいる温かい出産の場を目指す、ではだめなのですか?






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