これはないと思う 「助産雑誌 9月号」その4

助産雑誌 9月号」の巻頭インタビュー「いのちをつなぐひとたち」は、河合蘭氏(出産医療ジャーナリスト)でした。


最初のページには、次のようなキャプチャーがあります。

これからは、ハイリスク出産にも助産師のケアが必要な時代


そしてインタビューは以下の言葉で締めくくられていました。

どんなお産の現場にも、助産師のケアは必要なんです。
「正常に至らない人に、助産師ができることはない」というひと昔前の仕事の概念を取り払い、現代ならではの助産技術を発掘し、磨いて欲しい。
助産師の温かい手は、すべての女性が待っているのですから。


これはないよなぁ、ほんとうに。


<出産の医療化は、出産する全ての女性を対象に>


「医療介入とは 19 <胎児の安全がわかるようになった時代>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120921で紹介した本、「出産の文化人類学 儀礼と産婆」(松岡悦子著、海鳴社、1985年)の中の「戦前の家庭分娩」から、明治生まれの開業助産婦、山口さんの話を引用します。


「中の島の人で、田舎で7人目まで自分で産んで、7人目の時お湯をつかわしてたら、さっと出血して気を失ったんで、8人目の時は最初から呼ぶから来て下さいっていわれたんだけど、私そんな恐ろしいお産いやですから、病院行ってくださいっていったんです。したら、『産婆さんでも初めてなのに、医者なんてとんでもない』っていって、病院に行ってくれないんです。8人目は何ともなく生まれたんですけれど、生まれてみれば『ほら、何ともないでしょ』ていうような顔されて。産婆よぶなんてたいした良いことしたみたいなこといってましたよ。

山口さんは、札幌の中心部で開業していたため、医者の往診を頼むことも、産婦を病院へ送ることも、僻地に比べるとずっと楽にできた。しかし、産婦の家族のほうで、金銭的なことを考えてか、医者をよぶことになかなか同意しないのである。とはいっても、胎盤の早期剥離や子癇をおこした産婦については、山口さんはあわてて病院へ送っている。

この場合の「病院」は北大病院で「分娩と3日間入院で無料」だったようですが、それ以外の産科医にかかるには金銭的な問題が大きな時代だったのだと思います。


また当時の助産婦・産婆は「正常な分娩」にのみ関わる職業でした。


戦後、昭和23年の保健師助産師看護師法によって、助産師は看護師の資格も必要になりましたが、そのかわり、病院勤務であれば正常から異常へと移行しても、出産が終わるまで産婦さんのケアをすることができるようになりました。


出産の医療化によって、すべての女性が医療の対象になりました。


そして助産師にすればそれまでの「正常経過の人だけ」が対象であったものが、全ての妊産婦さんに関わることができるようになったともいえます。



<正常なお産は、助産師の手で>


出産の医療化、そして助産師が看護師の資格を持って異常分娩の介助にも関わることができるようになりました。


それは「正常なお産」をA、「全てのお産」をBとすれば、「AはBに含まれる」という集合でいうところの包含関係が明らかになったことです。


つまり、助産師にすれば正常なお産だけの介助をすることよりも、異常経過のお産の介助もできることのほうが業務能力としては幅広いものといえます。


もちろん正常経過を中心に分娩介助をしたい人がいてもかまわないと思います。
でも「自分はすべてのお産の中の一部に関わっているにすぎない」ということを認識することは大事だと思います。


ところが、1980年代後半頃からの「自然なお産」の流れの中で、「正常なお産は助産師だけで介助できる」「ほとんどのお産は正常に終わる」という声が大きくなりました。


そして、「昔の産婆さんの温かいお産」「古きよき時代の自宅分娩」のようなイメージが作られました。
実際にはどうだったのでしょうか。前述の本から引用します。

山口さんの取扱簿をみせてもらったが、取扱簿で見る限り、産み月になって初めて訪れる人や、お産になっても出にくくなって初めて産婆を頼む人も、けっこういたようである。
産婆と産婦は妊娠中から信頼関係があった上で取り上げるというよりも、むしろまったく知らない人から頼まれて行くことも、多かったようだ。


また1970年代からの自然なお産の流れに影響を与えてきた人はおおよそ、なんらかの形で当時の開業助産婦さんとの出会いがあります。
自宅分娩が主だった時代から、1950年代に初めて登場した助産所という施設も1970年をピークに減少していきます。
1980年代に助産所を守っていた開業助産婦さんは、存在自体が珍しいこともあったと思います。
助産所で請け負う分娩数も少なくしかも経産婦さんのお産が主ですから、助産師以外の人から見たらなんと「自然な経過」でしかもずっと付き添ってくれて温かいお産だろうと思うことでしょう。
また十分な医療機器を備えることができなくても、それはかえって「家庭的な雰囲気」を強調することができました。
学生で実習に行った私でさえ、「こんなのんびりと関われるのはいいな」と思ってしまったくらいですから。


そうして助産所の存在が見直され、正常なお産をとることができる助産師という雰囲気が作られていきます。


<出産を話題にする人たちの出現>


1970年代以降、世界中で「自然なお産」を求める動きが活発になります。その中心になる人は、いくつかの集団に分けて考えることができます。
まずもともと家庭分娩を扱っていた助産婦は、人々が病院出産を選択することにより生業が窮地に立たされました。


1970年代頃には多くの国で、工業化あるいは技術・科学によって「支配」されていることへの反発や人間性を求める動き、公害・自然破壊への反省などの動きが高まっていきました。
医療も「生産ライン」に載せられた人間の扱いのように捉えられることもありました。
そういう社会の中で、文化人類学者が医療化された出産を捉えなおそうとしました。


市民の手で社会の問題を解決しようとする市民運動も活発になった時代でした。
ラマーズ法を広げるために、リブの活動家などが中心になって1980年に始めた「お産の学校」は代表的なものといえます。


さまざまな出産を巡る動きの中で、バースエデュケーター、バースコーディネーターそして河合蘭氏のような出産ライターなど出産に関して独自の働き方をする人が出現したのもこの時代でした。


書籍で、ネット上で、そして集会など実際の人とのつながりを通して、出産に関する話題や動きはいち早く作られていきました。


<物事を表現する責任とは>


こうした活動を通して出産を巡って自由に意見が出され、産む人たちの快適性に貢献した部分は大きいと思います。
ただ、今こうして振り返っても、安全性なくして快適性はないという点でブレーキがかからなかった時代なのだと思います。


インタビュー記事の中で、河合氏は以下のように自身の葛藤を書いています。
少し長くなりますが引用します。

そんな1つひとつの驚きをもっと伝えたいと、さまざまな助産院を取材したり、自然出産のよさを発掘して伝えることを続けていました。そうしているうちに、同じように活動している仲間と出会い、産む人と医療者をつなげぐネットワーク「REBORN」を立ち上げたり、「いいお産の日」のイベントにかかわったり、お産の文化的側面や社会的側面がわかる海外の分娩を紹介したりして、お産の質を高めよう、本来のお産の姿を知らせようという活動にのめりこんでいきました。
でも、第2子を出産した後に、34歳で流産を経験して、私の中で何かが変りました。「お産は自然でなければいけない」「ほとんどの人は自然に産めるんだから、薬剤を使うなんておかしい」そんな気持ちで活動していたけれど、授かった命と出会えないこともある。お産の質は、命を授かって、妊娠を継続できて、出産にまで至ってこそようやく高められるもの。出産の質だけにこだわることに、そんなに価値があるのだろうか。そもそも命が授かるという自然の厳しさを、自分自身がわかっていなかったんじゃないか。などなど、自問自答の連続でした。
そうは言っても、幸せなお産体験をする女性が増えること自体はいいことだし、その体験を通して「ベリーハッピー」が増える活動自体は、価値があったはず。そう思いなおして、「自然は厳しい」ことも視野に入れながら、あらためて活動を続けていくことにしました。

1993年頃に流産の経験をされたようです。
「何かが変った」。でもちょうど、REBORNやいいお産の日が始まった頃だと思います。


そして2007年に出版された岩波ブックレットNO.704「助産師と産む」では、サブタイトルにこそ「病院でも、助産院でも、自宅でも」とありますが、内容はやはり開業助産師の分娩介助こそが理想のようにとらえた箇所がたくさんあります。

助産師は)問題なく妊娠経過をたどる人への助産や保健指導に手間暇をかけて心をかける仕事として発達してきました。
医療を使わないので出産という自然を征服しようとせず、それと共存し、うまくつきあっていく技を磨いてきました。

前述した山口さんの話を聞くだけでも、助産婦・産婆が対応できたのはごく一部の産婦さんにすぎないし、継続して関わることも少なかったことがわかります。また厳しい自然の前には手も足もでなかったことも。


そして現代医療の中の出産も以下のように表現しています。

出産は健康なことなのに、白衣の専門家たちに囲まれる現代の出産は、女性たちを無力な患者の気分にしがちです。

今こそ産む人と出産の支援をするすべての人たちは、出産とは、女性自身が自分の心と身体についてもっと知り、自分自分自身の手で築いていくものだと認識を改め、医療だけで支えるものではないことにしっかり目覚めるべきではないでしょうか。そして、それを導くことがができる助産師を表舞台に出していくことです。

(自然なお産とは)機械や薬を使いすぎる時代へのアンチテーゼ。無事に生まれればそれでいいとも考えられていますが、現代にあっても、自分は自然の一部なんだと実感できるチャンスが、子どもを産むということなのです。

病院出産が能率一点張りのお産をしていると女性は助産院にしがみつきたくなりますが、そうではない病院が増えれば、女性も無理をしてまで助産院に固執する理由はなくなります

いきおいよくよどみなく言葉で説得されていくような文章ですが、結局、何を言いたいのかわからなくなります。
そうか、今まで助産院を選択していたのは「無理をして」「固執していた」のですか。
何に対しての無理かといえば、安全性がないことですよね?
それならなぜそこまで病院の出産を否定し続ける活動をされてきたのでしょうか。


<A(正常なお産)はB(全てのお産)に含まれる>


前述の岩波ブックレットでは、病院勤務の助産師について次のように書いています。

ほとんどの助産師は病院に勤めていますが、多くの場合、出産の専門家でありながら、普通の看護師とあまり変らない仕事をしています。

産科以外の仕事を要求される混合病棟の問題は確かにあります。


でもおそらく「看護師とあまり変らない仕事」に見えたのは、もうすでに半世紀以上も前から、助産師が看護師の資格を有するようになって以来、それこそ河合氏のいう「ハイリスク」の人も含めた全ての出産に関われる知識と技術を培ってきたということではないでしょうか?


「正常に至らない人に、助産師ができることはない」なんて言う助産師は、B(全体)の中のAしかできませんということなのです。


ところがここ10年ほど、開業や院内助産を勧め、Aしかできない助産師を「自律している」と称えてきました。
それを後押ししたのが助産雑誌や出産ジャーナリストのような人たちではなかったでしょうか。
「ひと昔前」って、そういうことの意味でしょうか?



自分が書いてきたことの中に、よく知らずに断定していたこと、間違ったことがあれば訂正する。
筆を持つ人たちに是非して欲しいと思います。


<おまけ>


以前は出産ライターだったのに、最近は出産医療ライターになっています。
またインタビューアーは畑中郁名子氏という人で、周産期ライターだそうです。
あの「助産院のごはん」を取材執筆した人でした。
なんだかなぁ。